戦闘の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/07 17:33 UTC 版)
「ピアチェンツァの戦い」の記事における「戦闘の計画」の解説
オーストリア軍の人数がガージェ伯爵の軍勢より約1万5千人多かったため、ガージェ伯爵はオーストリアの騎兵突撃のコストを少しでも増やし、スペインの反撃を促すべく、戦闘の計画を立てた。彼はこの計画で戦闘に勝利しようとした。すでにボロボロなピアチェンツァに立てこもらず、ガージェ伯爵は塹壕を掘って砲台用の穴を作るよう命じ、オーストリア軍が攻撃しなければならない防御線にしようとした。彼はまたピアチェンツァの北を哨戒することを命令した。マイユボワが到着したことで連合軍は4万人に膨れ上がったが、食料の調達に困難が生じてしまった。さらに、サルデーニャ軍1万人が西方から進軍してきてオーストリア軍と合流する予定であり、合流が成功するとオーストリア軍の優位はさらに揺るがないものとなる。 サルデーニャ軍が後1日の行軍で到着するため、マイユボワはオーストリア軍に即時攻撃するよう進言した。ガージェ伯爵はここで計画を変更、軍の中央部を薄くして両側を補強した。戦闘が開始すると、オーストリア軍左翼への攻撃で中央部まで押し込む予定であった。また、ガージェ伯爵はマイユボワにフランス軍を最右翼に配置してオーストリア軍右翼を包囲、さらにその後ろを攻撃させた。戦闘開始の日時は16日の日の出とした。 オーストリア軍はそれまでの数か月間を大砲の配置、連合軍の哨戒への攻撃、食料の調達に費やした。すでに勝利ムードだったこともあり、オーストリア軍の戦闘計画は連合軍のそれよりはるかにシンプルなものだった。すなわち、ガージェ伯爵に攻撃させてその部隊を浪費し、連合軍がつかれてきたところで反撃に転じる、というものだった。15日朝、オーストリア軍はピアチェンツァの北へ軍を配置し始めた。フランス軍にとって不幸なことに、オーストリア軍のマクシミリアン・ウリセス・ブロウネ伯爵はマイユボワの戦略を看破して部隊を移動させ、フランス軍の進攻を阻止した。アントニオット・ボッタ・アドルノ(英語版)侯爵はオーストリア軍右翼を率いたが、彼はただ自軍に警戒せよと命じただけにとどまった。今や、オーストリア軍は準備を整え、連合軍の攻撃を待つのみとなった。
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