アトランタ方面作戦
アトランタ方面作戦
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「カンバーランド軍」の記事における「アトランタ方面作戦」の解説
軍司令官:トーマス少将 詳細は「en:Atlanta Campaign Union order of battle」を参照 軍団師団旅団第4軍団オリバー・O・ハワード少将 第1師団David S. Stanley少将 第1旅団(9個連隊) 第2旅団(7個連隊) 第3旅団(9個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第2師団John Newton (准将 第1旅団(8個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(8個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第3師団Thomas J. Wood准将 第1旅団(9個連隊) 第2旅団(10個連隊) 第3旅団(7個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第14軍団John M. Palmer少将 第1師団Richard W. Johnson准将 第1旅団(9個連隊) 第2旅団(7個連隊) 第3旅団(7個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第2師団Jefferson C. Davis准将 第1旅団(6個連隊) 第2旅団(6個連隊) 第3旅団(6個連隊) 砲兵部隊(3個砲兵中隊) 第20軍団ジョセフ・フッカー少将 第1師団アルフェウス・ウィリアムズ准将 第1旅団(6個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(7個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第2師団ジョン・ギアリー准将 第1旅団(6個連隊) 第2旅団(7個連隊) 第3旅団(7個連隊) 第3師団ダニエル・バターフィールド准将 第1旅団(5個連隊) 第2旅団(5個連隊) 第3旅団(6個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 独立部隊 予備旅団(3個連隊) はしけ部隊(1個連隊、1個はしけ大隊) 重砲兵部隊(1個重砲兵中隊) 他にテネシー軍から3個軍団、オハイオ軍(新設)から1個軍団が参戦。総指揮官はウィリアム・シャーマン少将。
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アトランタ方面作戦
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「第17軍団 (北軍)」の記事における「アトランタ方面作戦」の解説
1864年3月、マクファーソンはテネシー軍司令官に昇進した。その後暫くの間第17軍団長は空席であったが、5月にブレア少将が任命された。ミシシッピ方面軍司令官となったシャーマンはアトランタ方面作戦のために、7個軍団をジョージア州に送った。第17軍団もテネシー軍の一員として加わったが、第3師団および第4師団のみが参加した。この2個師団は初期の戦闘には参戦しなかったが、ケネソー山の戦いとアトランタの戦いでは激しく戦った。モーティマー・リゲット(Mortimer Dormer Leggett)の第3師団は特にボールド・ヒルで激しい戦闘を行い、その名誉を記念してボールド・ヒルはリゲット・ヒルと名前が代えられた。アトランタ陥落後ブレアは軍団を離れたため、トーマス・ランソム(Thomas E. G. Ransom)が軍団長を務めた。10月29日に南軍ジョン・ベル・フッドの攻撃でランソムが戦死すると、ブレアが戻って軍団を率いた。
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アトランタ方面作戦
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軍司令官:スコフィールド少将 詳細は「en:Atlanta Campaign Union order of battle」を参照 軍団師団旅団第23軍団ジョン・マカリスター・スコフィールド少将 第1師団Alvin Peterson Hovey准将 第1旅団(4個連隊) 第2旅団(2個連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) 第2師団Henry M. Judah准将Milo Smith Hascall准将 第1旅団(6個連隊) 第2旅団(7個連隊) 第3旅団(4個連隊) 砲兵部隊(3個砲兵中隊) 第3師団ジェイコブ・ドルソン・コックス准将James W. Reilly大佐 第1旅団(10個連隊) 第2旅団(1個連隊) 第3旅団(4個連隊) 独立騎兵部隊(2個騎兵連隊) 砲兵部隊(2個砲兵中隊) その他カンバーランド軍の3個軍団、テネシー軍の3個軍団、騎兵軍団が参戦。
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アトランタ方面作戦
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詳細は「アトランタ方面作戦」を参照 チャタヌーガが確保されたことにより、ディープサウスの中心部への進撃路が開かれた。1864年のアトランタ方面作戦はシャーマンがその指揮を執ることとなり、テネシー軍は彼の「鞭ひも」として働いた"。1864年3月、リンカーンはグラントを中将に昇進させ、北軍の陸軍総司令官に任命した。このため、グラントは東部に移動し、その司令部をポトマック軍司令部に併設した。西部戦線では、シャーマンがグラントの後を受けてミシシッピ軍管区司令官に昇進し、テネシー軍の司令官には第17軍団長であったマクファーソンが昇進した。マクファーソンはグラントがヘンリー・ドネルソン方面作戦を実施した時に、その工兵部隊の責任者(中佐)としてテネシー軍におけるキャリアを開始していた。南軍側では、チャタヌーガの敗北後にブラッグは南軍テネシー軍の司令官を解任され、ジョセフ・ジョンストン大将、続いてジョン・ベル・フッド中将がその任に就いた。 シャーマンは後に5月初旬に開始されたアトランタ方面作戦を振り返って、ウェスタン&アトランティック鉄道に沿っての「160マイル以上」の「120日間の連続した戦闘」で、「昼夜を問わず、大砲の砲熕とライフルの銃声が聞こえていた」と述べている。この作戦開始時におけるテネシー軍の兵力は約25,000人であり、ジョン・A・ローガン少将の第15軍団およびグレンビル・ドッジ准将の第16軍団左翼に加え、マクファーソンは今はフランシス・プレストン・ブレア・ジュニア少将が指揮する17軍団からも2個師団を抽出した。シャーマンの総兵力は、テネシー軍に加えて、ジョージ・ヘンリー・トーマスのカンバーランド軍(3個軍団)、ジョン・マカリスター・スコフィールドのオハイオ軍(1個軍団)の合計約100,000人であった。通常、兵力の多いカンバーランド軍が中央に位置し、テネシー軍とオハイオ軍が両翼を務めた。この複雑な作戦において、シャーマンは彼の旧知の軍に信頼を置いていたため、「テネシー軍を迂回攻撃に使うことを好んだ。」 シャーマンのテネシー軍に対する信頼にも関わらず、ある歴史家はマクファーソンを「積極性に欠けた」軍司令官であったと評価しており、また他の歴史家は「丘の向こうで何が起きているかを気にしすぎていた」と考察している。マクファーソンのこのような性格と、兵力が少なかったことも手伝って、作戦初期のレサカの戦いの前には、機会を生かして手柄を立てることはできなかった。シャーマンの南進が開始されると、ジョンストンはジョージア州ドールトンで防衛線を引いた。レサカからジョンストンの背後を脅かすことを期待し、シャーマンは北軍右翼のマクファーソンをロッキーフェイスリッジの西に送り、「占領も防衛も邪魔者も見張られもしていない」スネーククリーク峡谷を通ってレサカへ向かわせた。マクファーソンはジョンストンの背後には出たものの、シャーマンの計画であるジョンストンと南部からの鉄道補給を遮断する行動には出ず、そこで防御体制を取ってしまった。シャーマンの残りの部隊は移動し、5月13日-15日にかけてレサカで最初の大規模な戦闘が発生した。マクファーソンが期待通りの働きを見せていたら、決定的な勝利を得ることができたかもしえないが、シャーマンはジョンストンをアデアーズビルに後退させたことで満足せざるを得なかった。 レサカでの両軍の動きは、作戦初期の基調とも言えるものであった。シャーマンはジョンストンの側面を迂回して包囲しようと試み、ジョンストンはそれを避けてアトランタへ向かって後退した。6月27日、シャーマンは迂回作戦を止め、ケネソー山に陣を敷くジョンストンに正面攻撃をかけた。この攻撃が失敗すると、再び南下を開始するために、シャーマンはマクファーソンを右翼から左翼に大移動させた。7月18日、テネシー軍は巨大な旋回運動を完了し、北軍右翼から左翼へ転じて、デカターの東方でジョージア鉄道を遮断した。その1日前の7月17日、消極的なジョンストンは解任されジョン・ベル・フッドが南軍テネシー軍の司令官に任命された。攻撃的なフッドは、直ちにピーチツリークリークの戦い(7月20日)を開始した。フッドの作戦は右翼のオハイオ軍と中央のカンバーランド軍の間で北軍前線を分断するというものであったが、これには失敗した。続いて7月22日にはアトランタの戦いが発生し、フッドは強力な突撃を左翼に位置していたマクファーソンのテネシーに対して実施した。この戦いでマクファーソンは戦死し、軍の指揮は先任の軍団長であった第15軍団のローガンが代行した。7月22日の戦闘は、ある歴史家によると「テネシー軍の戦歴の頂点」であり、27,000人の兵力で「40,000人近くの兵力を有し、奇襲効果だけでなく位置的にも優位であった南軍を打ち破った。」 ローガンの戦場での成功にも関わらず、シャーマンはウェストポイントの卒業生であり、カンバーランド軍の第4軍団長であったオリバー・O・ハワード少将をテネシー軍の司令官に任命した。その後、シャーマンはアトランタ西方から攻めることとし、テネシー軍を右翼へと移動させた。この動きによって、7月28日にエズラ教会の戦いが発生し、ハワードはフッドの3回目の攻撃を「容易に撃退した。」しかし、シャーマンはこの結合点での北軍騎兵部隊の敗北という痛手を受けており、その後約1ヶ月に渡って北軍の活動は不活発になった。8月になって、アトランタの北および南の拠点を放棄し、テネシー軍をアトランタの南方に大きく迂回させてフッドの最後の鉄道補給線を攻撃することで、この手詰まり状態から抜け出した。8月31日、ジョーンズバラの戦いの初日、南軍の最後の攻撃は撃退された。鉄道連絡を失ったため、フッドの南軍部隊は9月1日の夜から2日にかけて、アトランタを放棄して脱出した。シャーマンのアトランタ攻略はテネシー軍の武勇によって得られたものであり、「ビックスバーグ攻略と並ぶ偉大な勝利」であり、11月のリンカーン再選に大いに貢献した。シャーマンは後に、第15軍団は作戦中に約178マイルの「横方向の移動」を行ったと見積もっている。
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アトランタ方面作戦
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「ジョセフ・ジョンストン」の記事における「アトランタ方面作戦」の解説
1864年の春、北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍がチャタヌーガからアトランタへ向けて進軍を続けるのを前にして、ジョンストンは以前と同じく後退しつつ戦う戦略を用いた。ジョンストンは強固な防衛陣地を築いたうえで何度か抵抗を試みたが、シャーマンはそれを全て迂回するように進軍したため、南軍はアトランタに向けて後退するしかなかった。ジョンストンは自軍の保持が最も重要な配慮すべき事だと考えており、大変用心深い作戦行動を続けた。自軍をうまく操作して北軍の歩みを遅らせ、自軍の被ったよりも多くの損失を北軍に与えた。6月27日、ケネソー山の戦いでジョンストンはシャーマン軍を破ったが、純粋にシャーマンの攻勢を一時的に退ける事に成功しただけで、北軍が攻勢を続ける事を妨げたわけではなかった。南部の新聞等はジョンストンの戦略が完全に防御的なものであり、進んで攻撃するリスクを採らなかったために南軍の勝利のチャンスが消えたと主張した。ただしこの時点でジョンストン率いるテネシー軍は兵力の点で北軍に対して圧倒的に不利であり、攻勢に出たからといって勝利できるかどうかは怪しかった。 しかしデイヴィスも後退しかしないジョンストンの戦略を怠慢だと見なすようになり、アトランタのすぐ郊外であったピーチツリークリークの戦いの直前、1864年7月17日にジョンストンをテネシー軍の指揮官から外した。後任のジョン・フッドは過度に攻撃的で、北軍に対して攻勢に出ると言う期待には応えたものだったが結局数に勝る北軍を撃滅する事はできず、9月にはアトランタを失った。その冬のフランクリン・ナッシュビル方面作戦ではテネシー軍の大半も失った。デイヴィスがジョンストンを解任するという決断をした事は、この戦争に関する議論の中でも最も争われていることの一つである。
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アトランタ方面作戦 (1864年5月-9月)
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「西部戦線 (南北戦争)」の記事における「アトランタ方面作戦 (1864年5月-9月)」の解説
詳細は「アトランタ方面作戦」を参照 1864年3月、グラントは中将に昇進し、北軍全軍を指揮するために東部に移動した。シャーマンが西部戦線の指揮を引き継いだ。グラントは南軍に対して同時に侵攻する戦略を立てた。それは3軍(ジョージ・ミード、ベンジャミン・バトラーおよびフランツ・シーゲルの各将軍が指揮)がバージニアのロバート・E・リー将軍の南軍を打ち破るか行動を規制するためにリッチモンドに向けて発進する、またシェナンドー渓谷を抑える、ナサニエル・バンクス将軍はアラバマ州モービルを抑える、さらにアトランタに侵攻してジョンストン軍を破壊するという戦略であった。この作戦の大半は失敗した。バトラーはバミューダ・ハンドレッド方面作戦で行き詰まった。シーゲルはシェナンドー渓谷で敗北した。バンクスは運の無いレッド川方面作戦に囚われてしまった。ミードとグラントは多くの挫折を経験し、オーバーランド方面作戦では損失も被ったが最終的にはピーターズバーグを包囲した。シャーマンのアトランタ方面作戦は大きな成果を挙げた。 アトランタ方面作戦の開始時点でのミシシッピ方面軍は3つの部隊があった。ジェイムズ・マクファーソンのテネシー軍(グラントの下にいたときのシャーマンの担当軍)、ジョン・スコフィールドのオハイオ軍およびジョージ・トーマスのカンバーランド軍であった。対する南軍はジョセフ・ジョンストンがテネシー軍を率いていた。勢力を見るとシャーマン軍の98,000名に対しジョンストン軍50,000名で大きく北軍優位であったが、北軍は兵士に賜暇を与えて減っていたのに対し、ジョンストン軍はアラバマ州から15,000名の援兵を得ていた。 方面作戦の始まりは1864年5月と6月の幾つかの戦闘であり、シャーマンは山岳地でジョンストン軍を南東に追い遣ることができた。シャーマンはジョンストン軍に正面切って戦うことは慎重に避けていた。その代わりに守備隊の側面を衝くように操軍した。シャーマンが防衛戦の側面を衝くと(ほとんどの場合ジョンストン軍の左翼だった)、ジョンストンは次の用意された防衛地点まで後退した。6月27日、ケネソー山の戦いは全くの例外であった。シャーマンは正面攻撃を掛けてかなりの損失を被った。両軍ともに鉄道を補給線として利用していたが、ジョンストン軍がアトランタに近付くにつれて補給線が短くなったのに対し、シャーマン軍は長くなって行った。 7月20日、アトランタ郊外でのピーチツリークリークの戦いの直前に、ジェファーソン・デイヴィスはジョンストンの戦略に我慢できなくなり、より攻撃的なジョン・ベル・フッドに交替させた。このことは戦略的な誤りになった。フッドはアトランタの周りで数週間防衛線を固めることに費やした後で、開けた戦場でシャーマンに会戦を挑むことを選んだが、その勢力的に劣る軍隊では勝てなかった。シャーマンはその結果フッドの南からの補給線を絶った。フッドは窮地に陥ったことを察知し、9月1日の夜にアトランタを明け渡した。この時軍需物資や施設を焼いたので、町は大火になった。 アトランタにおけるシャーマンの勝利と時を同じくして、デイビッド・ファラガット提督がモービル湾の海戦で大勝し、メキシコ湾でミシシッピ川から東の最後の海港が閉ざされ、北軍の海上封鎖がさらに強固になった。アトランタとモービル湾の確保は北軍の士気を上げ、エイブラハム・リンカーン大統領の再選にも大きく貢献した。
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