ハンプトン・ローズ海戦
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ハンプトン・ローズ海戦(ハンプトン・ローズかいせん、Battle of Hampton Roads)、別名モニターとメリマックの戦い(the Battle of the Monitor and the Merrimack)は南北戦争中に生起した海戦。この海戦は鉄板で装甲された動力軍艦(すなわち装甲艦)同士の歴史上最初の戦いとして有名であり、アメリカ合衆国海軍の革新的な設計の装甲艦「モニター」とアメリカ連合国海軍の装甲艦「バージニア」(これは合衆国軍艦「メリマック」の焼けた船体を改造したものである)が交戦した。主要な海戦は1862年3月8日から9日にバージニア州ハンプトン・ローズ河口付近のシーウェルズ・ポイント (Sewell's Point) 沖で行なわれた。
ハンプトン・ローズ海戦
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「南北戦争の海戦」の記事における「ハンプトン・ローズ海戦」の解説
詳細は「ハンプトン・ローズ海戦」を参照 南北戦争で最も重要であり有名になった海戦の1つが、USSモニターとCSSバージニアの装甲艦同士の対決だった。1862年3月9日に発生した。この戦闘は数時間続き、戦術的には引き分けに終わった。両艦ともに厚い装甲で覆われており、どちらにも永続するような損傷を与えられなかった。
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ハンプトン・ローズ海戦
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「バージニア (装甲艦)」の記事における「ハンプトン・ローズ海戦」の解説
詳細は「ハンプトン・ローズ海戦」を参照 ハンプトン・ローズ海戦はバージニアが配属された1862年3月8日に始まった。バージニアは完成に最大の努力が払われたが、出航時点でも艦内では作業員が作業を継続していた。バージニアはローリー(CSS Raleigh)とビューフォート(CSS Beaufort)の支援を受け、パトリック・ヘンリー(CSS Patrick Henry)、ジェームズタウン(CSS Jamestown)、ティーザー(CSS Teaser)に伴われて航行を続け、合衆国軍の封鎖艦隊と遭遇した。 バージニアが最初に遭遇したカンバーランド(USS Cumberland)は、衝角による攻撃で船体を破損し沈没した。しかしカンバーランドへの攻撃でバージニアは衝角を損傷した。コングレス(USS Congress)の艦長は艦を浅瀬に座礁させることを命じ、その後コングレスとバージニアは砲撃戦を行う。一時間の砲撃戦の後、コングレスは大きく損傷し降伏した。コングレスの乗組員の生き残りが艦から退却する間に、北岸の合衆国軍砲台がバージニアに砲撃を始める。その報復としてバージニアは炎上するコングレスへの砲撃を命じた。 バージニアは戦闘を無傷で切り抜けることはできなかった。カンバーランド、コングレスおよび合衆国軍はバージニアの煙突を破壊し、すでに低速となっていたバージニアの速度はより一層低下した。搭載する砲2門は発射不能となり、多くの装甲板が失われていた。それでもバージニア艦長はミネソタ(USS Minnesota)への攻撃を命じ、ミネソタはバージニアを回避しようとして浅瀬に座礁した。バージニアの吃水は深すぎたためミネソタへの攻撃を継続することはできなかった。その日遅くに翌日の再攻撃を目論みながらバージニアは戦場を去った。 モニター(USS Monitor)は夜遅くにフォート・モンローに到着し、合衆国の都市へのバージニアの脅威を防ぐことと、合衆国軍を保護するためハンプトン・ローズへ急いだ。 翌日の1862年3月9日に世界初の装甲艦同士の海戦が行われた。海戦はバージニアよりも小さく小回りのきくモニターが勝利した。しかし両艦とも多くの砲撃にもかかわらず、互いに効果的な損傷を与えることができなかった。モニターは船体の殆どが水面下にあり、バージニアは効果的な命中弾を与えることができなかったものの、衝角による衝撃には弱かった。結局モニターは艦長が火薬により目を負傷したためバージニアの支配する「戦場」を退却することとなった。バージニアの指揮を執っていたジョーンズ(ブキャナンは戦闘中に負傷)も退却が最良と考え、合衆国軍の封鎖は継続された。モニターはバージニアとの再戦を望まなかった。 その後2ヶ月にわたってバージニアはモニターとの再戦を望むべくハンプトン・ローズへ数度の出撃を行った。しかしモニターはそれに応じなかった。
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ハンプトン・ローズ海戦
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「モニター (装甲艦)」の記事における「ハンプトン・ローズ海戦」の解説
詳細は「ハンプトン・ローズ海戦」を参照 1862年3月8日、ハンプトン・ローズで行われた合衆国海軍による海上封鎖部隊に対して連合国海軍装甲艦「バージニア」(CSS Virginia) は攻撃を行い、「カンバーランド」(USS Cumberland) および「コングレス」(USS Congress) を破壊し、「ミネソタ」(USS Minnesota) を座礁させた。その夜、「モニター」はジョン・L・ウォーデン中尉の指揮下にブルックリンから曳航されて到着した。翌3月9日、「バージニア」は「ミネソタ」および他の合衆国海軍艦艇へ攻撃を行うため戻り、「モニター」は「バージニア」を阻止するために出撃した。両装甲艦は約4時間の戦闘を行い、共に大きく損傷した。戦術的には戦闘は引き分けであったが、戦略的には「モニター」の勝利であった。「バージニア」の使命は海上封鎖の突破であったが、結局封鎖を破ることはできなかった。「モニター」の使命は合衆国艦隊を守ることであったが、その目的は達成された。「モニター」が艦長の目の負傷で退却した後「バージニア」は戦場を "支配" した。「バージニア」はその後もしばしばハンプトン・ローズで航行したが、2隻の装甲艦が再び相まみえることはなかった。
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