ファイブフォークスの戦い
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ファイブフォークスの戦い Battle of Five Forks | |||||||
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南北戦争中 | |||||||
![]() ファイブフォークスの戦いでのシェリダンの突撃 (1886年頃に出版されたリトグラフ) | |||||||
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衝突した勢力 | |||||||
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指揮官 | |||||||
フィリップ・シェリダン | ジョージ・ピケット | ||||||
被害者数 | |||||||
830 | 2,950 |
ファイブフォークスの戦い(英:Battle of Five Forks)は、南北戦争の最終盤1865年4月1日にアポマトックス方面作戦の一部としてバージニア州ピーターズバーグの近くディンウィッデイー郡で行われた戦いである。この戦闘は南軍の最終的敗北を決定付けたという意味で、時として「南軍のワーテルロー」と言われることもあり、北軍のフィリップ・シェリダン少将が、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍のジョージ・ピケット少将と戦った。この戦闘でピケットが敗北したことで、リーがピーターズバーグ周辺の塹壕線を放棄する決断を下す引き金となり、撤退を始めた後の4月9日にアポマトックス・コートハウスで降伏することに繋がっていった。
背景
3月31日のディンウィッディー・コートハウスの戦いの後でピケットは、北軍第5軍団から援軍が到着していることを知り、ハッチャーズラン背後の陣地に後退しようと思った。しかし、リーはピケットにハッチャーズランの手前で留まり、その歩兵師団と3個騎兵師団でファイブフォークスの交差点を確保するよう命令した。「ファイブフォークス」とはホワイトオーク道路とスコッツ道路、フォーズ道路(あるいは教会道路)、さらにディンウィッディー・コートハウス道路の交差点のことだった。リーの伝言は次のようなものだった。
万難を排してファイブフォークスを確保すること。フォード貯蔵所に至る道路を守り、北軍がサウスサイド鉄道を攻撃しないようにすること。貴方の部隊を必要以上に引かせたことを後悔し、折角掴んだ利点を保てないことを残念に思う。
ピケット隊はホワイトオーク道路沿いに全長約1.75マイル (2.8 km)に及ぶ材木と土の防御線を構築し、両側面は騎兵隊に守らせた。シェリダンの攻撃作戦は、全線にわたって騎兵で軽い圧力を与えて南軍を動きにくくしておき、ガバヌーア・ウォーレン少将の第5軍団全てで南軍の左側面を集中攻撃することだった。間違った地図や情報のために、シェリダンは敵の左側面が実際よりも遥か東にあるように思いこんでいた。
ぬかるんだ道路と絡まった薮のために北軍の動きが鈍くなり、ウォーレンは午後4時頃まで攻撃の準備ができなかった。シェリダンはその遅れについてウォーレンの個人的指導力を非難した(シェリダンはこの方面作戦の初期からウォーレンを評価しておらず、もし彼が適していなければ解任してよいとユリシーズ・グラントから秘密の許可を得ていた)。しかし、シェリダン自身の騎兵隊も同じような問題に直面しており、この戦闘ではほとんど戦わずに終わった。
戦闘
シェリダンがウォーレンに与えた攻撃作戦は2個師団を前面に出し、3個目の師団は予備隊として後に随いて前進することだった。前線の右師団はサミュエル・クロウフォード少将が指揮し、敵の工作物の外れに近い所からある角度で攻撃し、左師団はロメイン・B・エアーズ少将が指揮し、真っ正面から前線を攻撃することになっていた。しかし、誤った情報のために実際の側面はシェリダンが考えていたよりも遥か西にあったので、クロウフォードの師団は前進するにつれて完全に前線を見失ってしまい、エアーズの師団は前線を掠めたときに左から縦射を浴びるようになってしまった。
北軍の2つの師団は深く茂った薮の中で必死に方向を定めようとして、混乱の中で四苦八苦した。チャールズ・グリフィン少将の予備師団は混乱を増すよりも停止することを選んだ。中央に留まることを選んだウォーレンはその副官達を全て早駆けさせて攻撃の方向を正す伝言を伝えさせたが、それも効果はなく、ウォーレン自らが指揮を執るために馬で騎り出した。一方、シェリダンはエアーズの前衛とともに馬で進み、自ら突撃を指揮してピケットの前線左側面を突破した。この行為が当時の絵画やリトグラフに英雄的に描かれることになった。
南軍が新しい防御線を造ろうとしている時にグリフィンの師団がエアーズの右に動いて攻撃した。ウォーレンはクロウフォードの師団に北から戦闘に加わるよう命令した。シェリダンの騎兵隊がピケットの右側面を襲ったが、南軍兵が逃げ出すのを抑えられなかった。しかし、この戦闘は北軍の決定的な勝利となり、ピケット隊9,200名のうちの3分の1近くが損失となった。
戦闘の後
ピケットの不運な軍歴にまた一つ不面目が加わった。攻撃の時は部隊から2マイル (3 km)離れており、フィッツヒュー・リーやトマス・L・ロッサー少将たちとハッチャーズランの北で焼きシャッド(ニシン科の魚)を味わっているところだった。ピケットは将軍の不在を部下に伝えることを怠っており、指揮官のいないままにしていた。気象条件のために戦闘の音が消されてしまっており、戦闘が起こっていることに気付かなかった。ピケットが戦場に戻ったときは既に遅かった。
ファイブフォークスの交差点を失ったことで、リー軍にとって最善の逃走路であるサウスサイド鉄道に脅威が生まれた。翌4月2日の朝、リーはジェファーソン・デイヴィス大統領に、ピーターズバーグとリッチモンドを明け渡さねばならないことを伝え、グラントは防御の薄くなった南軍の塹壕線に対して第三次ピーターズバーグの戦いの総攻撃を掛けさせた。
北軍のフレデリック・ウィンスロップ准将がファイブフォークスで戦死し、南軍側で高い評価のあった砲兵士官ウィリー・ペグラム大佐が致命傷を負った。シェリダンはファイブフォークスに接近する時の第5軍団の行動に不満であり、ウォーレンを指揮官から解任した。
ファイブフォークスの戦場跡はピーターズバーグ国立戦場跡の一部として保存されている。
関連項目
参考文献
- Trudeau, Noah Andre, The Siege of Petersburg, National Park Service Civil War Series, Eastern National, 1995, ISBN 0-915992-82-5.
- National Park Service battle description
外部リンク
ファイブフォークスの戦い
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「第三次ピーターズバーグの戦い」の記事における「ファイブフォークスの戦い」の解説
「ファイブフォークスの戦い」も参照 決戦となったファイブフォークスの戦いは1865年4月1日、ピーターズバーグの南西、ディンウディ郡のファイブフォークスにある道路交差点の周辺で起こった。ファイブフォークスは南軍の残された補給線に導く重要な交差点だった。フィリップ・シェリダン少将の全軍指揮、歩兵第5軍団を指揮するガバヌーア・ウォーレン少将の下に歩兵、騎兵、砲兵を組み合わせた北軍のタスクフォースが、ジョージ・E・ピケット少将とフィッツヒュー・リー少将の騎兵軍団指揮の下に組み合わされた北バージニア軍タスクフォースを破った。北軍は南軍に1,000名以上の損失を出させ、少なくとも2,400名を捕虜に取って、重要なサイスサイド鉄道を支配するファイブフォークスを確保した。北軍の損失は戦死103名、負傷670名、不明57名で、合計830名だった。 3月31日の夜に北軍歩兵第5軍団が戦場に接近してきたので、ピケットは約6マイル (9.7 km) 後退し、ファイブフォークスのホワイトオーク道路、スコット道路、ディンウィディ・コートハウス道路(フォード道路の北側)の交差点の両側に半分ずつ跨った、全長1.75マイル (2.82 km) のそこそこに強化された前線まで退いた。リー将軍はその地点の戦略的重要さを考え、ピケットに何としてもファイブフォークスを守るよう命令した。 ファイブフォークスでは、4月1日午後1時頃に北軍の攻撃が始まり、シェリダンの騎兵隊が南軍前線の前面と右側面を攻撃した。それはトマス・デビン准将とジョージ・アームストロング・カーター准将(名誉少将)の師団からほとんど下馬した兵士の小火器によるものだった。南軍の胸壁の外側直ぐにある森に隠れた位置からの攻撃だった。この攻撃で南軍を釘づけにしている間に、第5軍団の歩兵の大半が、南軍の左側面に攻撃を集中した。 シェリダンは日中の太陽光がどの程度残っているか、また騎兵の弾薬が尽きかけているのではないかを心配しながら、歩兵部隊に午後4時15分頃に攻撃させた。ピケットとフィッツヒュー・リーは、その日のこんな遅い時間にシェリダンが攻撃をかけさせそうにはなく、またリー将軍が、北軍の歩兵部隊が攻撃するために動いてくれば援軍を送ってくれると考えたので、ホワイトオーク道路の主前線の北約1.5マイル (2.4 km) で魚のシャッドを焼いた遅い昼食を摂っていた。間を隔てた深く湿地のある森と、音響陰影効果のために、この2人の指揮官は近くで戦闘が始まった音を聞き損じていた。ピケットとリーは彼らの不在について次の位にある士官の誰にも指示を出しておらず、それらの部下は暫定的に任務にあたっていた。ピケットが戦場に到着したときには、その前線が崩壊しており、とても再編成できる状態ではなかった。 北軍の歩兵2個師団は情報が誤っており、また偵察も不足していたので、うまく南軍の左側面を攻撃できなかったが、その動きは偶然にも前線の端と後方から出現することで南軍の前線を取り囲む形になった。ロメイン・B・エアーズ准将の第1師団の攻撃だけで南軍主前線の左端にあった短い直角に曲げられた前線を圧倒した。シェリダン自身の指導力で兵士を鼓舞し、その標的に集中させることができた。チャールズ・グリフィン准将の師団が南軍左翼を通り過ぎていた状態から復帰し、修正されていた南軍の防御線を包囲することに貢献した。サミュエル・W・クロウフォード准将(名誉少将)の師団が主戦場の北を横切ったがフォードの教会道路を閉鎖してからファイブフォークスに殺到し、南軍歩兵部隊の最後の抵抗線を崩壊させることに貢献した。北軍の騎兵部隊はあまり成功していなかった。南軍の騎兵隊を押し返していたが、その大半は逃亡した。南軍の歩兵部隊の多くが戦死・負傷あるいは捕獲されたのとは対照的だった。 北軍のウォーレン少将は実際の速度に欠けていたこと、熱心さや指導力が無かったことと、シェリダンとの間に過去の蟠りや個人的な紛争があったこともあって、この戦闘を終わらせることになる最後の英雄的な突撃を自ら率いたにも拘わらず、戦闘が勝利で終わった時に、シェリダンはウォーレンを不当にも第5軍団長から解任した。この戦闘が終わった時に、北軍はファイブフォークスとサウスサイド鉄道に通る道路を確保した。
※この「ファイブフォークスの戦い」の解説は、「第三次ピーターズバーグの戦い」の解説の一部です。
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