南軍の防御
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/29 08:50 UTC 版)
ロアノーク島の防御は偶然な形で始まった。北軍の艦隊が1861年8月27日にハッテラス入り江沖に現れた時、第3ジョージア歩兵連隊が急ぎノーフォークから派遣されてそこの砦を守ることになったが、砦はこの部隊が到着する前に落ちたので連隊はロアノーク島に向かった。この部隊はその後3ヶ月間島に留まり、ハッテラス島から北軍を追い出すための幾分支離滅裂な努力を続けた。 10月初めまでこの陣地を守るためにほとんど何もできなかった後で、D・H・ヒル准将がこれらサウンドに近いノースカロライナ海岸の指揮を任された。ヒルは島の中央を横切る土盛りを兵士達に作らせたが、それが完成する前にバージニアに呼び戻された。ヒルが去ると直ぐにそこの地区軍は2つに分けられた。南側の部隊はローレンス・オブライアン・ブランチ准将に任され、北側の部隊はヘンリー・アレクサンダー・ワイズ准将の指揮下に入った。ワイズの守備範囲はアルベマール・サウンドとロアノーク島であり、パムリコ・サウンドと沿岸の都市は入っていなかった。ブランチはノースカロライナ方面軍指揮官のリチャード・C・ガットリン准将の部下である一方でワイズはノーフォークの防衛にあたるベンジャミン・フーガー少将の下に付いたことも重要だった。 ワイズはいわゆるワイズ・リージョンの指揮官だったがその部隊は連れてこなかった。そのリージョンは解体されたがその古い2個連隊、第46および第59バージニア連隊は保持することができていた。ワイズはまたノースカロライナ部隊、第2、第8および第17ノースカロライナ連隊と第17ノースカロライナ連隊の3個中隊も持っていた。ノースカロライナの兵士達は装備が不十分で防備もお粗末であり、その散弾銃以外の武器は何もない状態だった。全体で約1,400名の歩兵になったが、任務をまっとうできる勢力といえば、生活条件のために部隊の4分の1は病人リストに載るほどだったので、もっと少なかった。 ワイズはかってヒルがそうしたように、首都リッチモンドに大砲を幾らか送ってくれるよう頼んだが、実際に送られてきた数は不適切だった。それらの大砲は幾つかある名目上の砦に分散された。クロータン・サウンドに面しては島の北西隅にあたるウェアーズポイントのフーガー砦に12門が置かれ、約1マイル (1.6 km) 南西のブランチャード砦には4門、島を4分の1ほど降ったロマンチックな名前のポークポイントのバートー砦に9門が置かれた。サウンドの向こう、フーガー砦の対岸のレッドストーンポイントには、2隻の古い運河バージを泥地に乗り上げさせ、砂袋と綿花樽で防御を施し、7門の大砲で武装して、フォレスト砦と名付けられた。これらは全てサウンドを守ることを意図した大砲だった。島の南半分、パムリコ・サウンドに近いほうは攻撃部隊が来る方向と考えられたが防御は無かった。他の5門の大砲はクロータン・サウンドには向いていなかった。島の東側にある砲台の2門はロアノーク・サウンドを渡ってくる攻撃に備え、他の3門は島の地形的中心近くの土盛りに据えられていた。 ワイズは防御のために他にも工夫した。ワイズは幾つかの杭打ち機を見つけ、フーガー砦とフォレスト砦の間のサウンドに2列の杭を打ち込み、廃船を沈めて補強して航行を妨害できるようにした。この障害物は攻撃が来た時に働けるようにした。 南軍の海軍も防御に一役買った。7隻の砲艦が合計でわずか8門の大砲を搭載し、ウィリアム・F・リンチ海軍将官が指揮するモスキート戦隊を形成した。ワイズ自身はその戦隊の役割は否定的だと見ていた。島の砦から持っていった大砲だけでなく、その乗組員も連れて行った。ワイズは戦闘後にそのときの感情を次のように愚痴った。 リンチ艦長は精力的で熱心で活動的だったが、その砲艦戦隊全体にあまりに多くの重きを置いており、それが蒸気タグボートを連れて行って完全に愚かな砲艦に転換することで、杭、木材、飼料、あらゆる種類の補給品及び軍隊の輸送を妨げた。 ワイズが承認しなかったにも拘らず、モスキート戦隊は防御の一部となり、北軍は容易にそれに対処できるはずだった。
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