南軍への従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 03:35 UTC 版)
「パトリック・クリバーン」の記事における「南軍への従軍」の解説
合衆国からの脱退の危機が起こり、クリバーンは断固として南部州の肩を持った。その選択は奴隷制を愛していたからではなく、奴隷制については意に介さないと主張していたが、むしろ自分をその仲間として受け入れてくれた南部の人々への愛着から出たものだった。クリバーンは兵卒として地元の民兵中隊(イェール・ライフルズ)に入隊し、直ぐに大尉に選ばれた。1861年1月にこの中隊を率いてリトルロックのアメリカ軍弾薬庫を占領した。アーカンソー州が合衆国から脱退すると、イェール・ライフルズは第1アーカンソー歩兵連隊に組み込まれ、後に第15アーカンソー連隊と改名され、その中で直ぐに大佐に選ばれた。1862年3月4日には准将に昇進した。 クリバーンはシャイローの戦いに続いてリッチモンドの戦いに参戦してこの時顔に負傷し、その後ペリービルの戦いに従軍した。1862年遅くにテネシー軍がテネシー州まで後退した後で、師団指揮官に昇格し、ストーンズリバーの戦いではその師団が北軍右翼を敗走させて3マイル (5 km)前進し、北軍をナッシュビル・パイクまで追ってその最終防御戦まで後退させた。12月13日には少将に昇進した。 テネシー州における1863年の作戦では、クリバーン隊がチカマウガの戦いで珍しい夜の攻撃を行った。次の第三次チャタヌーガの戦いの直前に、テネシー軍指揮官ブラクストン・ブラッグが何を思ったか、突然クリバーン隊にノックスビルのジェイムズ・ロングストリート軍の支援に向かうよう命じた。東テネシー・バージニア鉄道のタイナー駅で兵士達が文字通り列車に乗り込むばかりだったクリバーン師団が呼び戻され、ミッショナリー・リッジ北縁のトンネル・ヒルの南軍右翼を補強するために急行した(トンネル・ヒルは通称、チャタヌーガ・ハリソン・ジョージタウン・チャールストン鉄道のトンネルがその下を通っていた)。11月25日午後3時頃、トンネル・ヒルを守っていた部隊が急斜面を駆け下りて突撃し、北軍ウィリアム・シャーマン少将の軍団を敗走させビリーゴート・ヒルまで押し返した。クリバーンはその師団に他の師団から2個旅団と2個連隊を加えただけであった。戦争の残り期間、その部隊は「トンネル・ヒル、テネシー州」に対する戦闘名誉章として、特異な青の師団旗を携行した。この戦いは南軍の大壊走という結果になったが、クリバーンの師団はほとんど無傷だった。それに続くジョージア州北部のリングゴールドギャップの戦いでは後退するテネシー軍の殿軍を務めて無事に南と東に逃亡できた。クリバーンとその部隊はこの作戦での功績に対しアメリカ連合国議会から公式の感謝状を受けた。 クリバーンが地形をうまく使って他の者では失敗するような陣地を確保する能力や、その小さな部隊で敵の動きを邪魔する能力によってこの頃に名声を揚げ、「西のストーンウォール」という渾名も貰った。北軍は戦場の向こうにクリバーン師団の青い旗が見えるとその部隊を恐れたと言われている。 クリバーンは、アメリカ連合国の人や資源が枯渇し始めたので戦争に負けつつあるということが分かるようになった。1864年、青天の霹靂でテネシー軍の指導者に招聘され、そこで奴隷を解放し南軍に入隊させて南部の独立を維持する提案を行った。この提案は多くの者から激しい敵意で迎えられ、公式にはアメリカ連合国大統領ジェファーソン・デイヴィスの命令でもみ消された。クリバーンがそれ以上昇進できなかったのはこのことが理由だと主張する者がいるが、クリバーンがウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)の卒業ではなかったという事実、およびアイルランド出身だったということも要因として考えられる。 クリーバーンの手紙(下記)には戦争の歴史的記録と国の考え方の両方を悩ませ続ける将来の予測も含まれている。 あらゆる者が遅きに失しないうちに征服される意味を理解しようと務めるべきである。...この英雄的闘争の歴史は敵によって書かれることになる。我々の側の若者達は北部の学校教師によって訓練されることになる。北部の学校のために書かれた教科書でこの戦争について学ぶことになる。我々の勇敢に戦死した者を反逆者として見なし、また我々の傷ついた古参兵が嘲笑の対象になる歴史と教育の影響で印象を受けるだろう。...征服者の政策は征服された者を党派に分け、その中での敵意を荒立てることである。...奴隷制はそのために我々が戦っていると言われており、もしそれを諦めるならば全てを諦める。これが真実だとしても、奴隷制は我々の敵が全てそのために戦っているのではないということを否定する。それは単に党派的な優越性とより集権化された政府を作るため、また我々から権利と自由を奪うための見せ掛けに過ぎない。
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