テネシー軍指揮官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 02:26 UTC 版)
「ジョン・ベル・フッド」の記事における「テネシー軍指揮官」の解説
1864年春、ジョセフ・ジョンストン将軍指揮下のテネシー軍が、テネシー州チャタヌーガからジョージア州アトランタに侵攻する北軍ウィリアム・シャーマンに対抗する作戦にかかわっていた。この作戦の間に、フッドはリッチモンドの政府に手紙を書き、ジョンストンの行動を厳しく批判した(フッドの地位にある者にとって極めて不適切と考えられる行動)。1864年7月17日、ピーチツリークリークの戦い直前、ジェファーソン・デイヴィスはジョンストンの後退を続ける戦略に我慢ができなくなり解任した。ジョンストンの軍団指揮官だったフッドが7月18日に暫定大将に昇進し、アトランタ入り口の直ぐ外にいたテネシー軍の指揮を任せられた。フッドはこの時33歳であり、南北戦争の両軍で1軍の指揮を任せられた者としては最も若い者になった。ロバート・E・リーはこの選択に反対してデイヴィスに助言し、フッドは「全てがライオンでありキツネではない」と言ったと考えられている(フッドの暫定大将昇進はアメリカ連合国上院で確認されることはなかった。中将としての任務は1865年1月23日に再開された)。 フッドはアトランタ方面作戦の残りを、彼を有名にした強い攻撃的行動で貫いた。その夏にシャーマンのアトランタ包囲を破るために就任直後のピーチツリークリークを初めとして4回大きな攻撃をしかけた。その攻撃はすべて失敗し、南軍は大きな損失を出した。最終的に1864年9月2日、フッドはアトランタを明け渡すこととし、できる限り多くの軍事物資と施設を焼いた。 シャーマンがアトランタで軍隊を再編し、その海への進軍の準備をする間、フッドとジェファーソン・デイヴィスはシャーマンを倒す戦略を考えようとした。その作戦はシャーマンのチャタヌーガからの通信線を攻撃し、続いてアラバマ州を抜けて北上し、テネシー州中部に入れば、シャーマンが脅威を感じて追跡してくるものと考えた。フッドの期待するところは、シャーマンに決戦を挑ませてこれを破り、テネシー州やケンタッキー州で新たに兵士を募り、カンバーランド渓谷を抜けて、ピーターズバーグで包囲されているロバート・E・リーの救援に向かうというものだった。しかし、シャーマンは乗って来なかった。その代わりに、ジョージ・ヘンリー・トーマス少将をテネシー州の北軍を統括するために派遣し、フッド軍に対する防衛を調整させ、シャーマン軍の大半はサバンナへ向けた行軍の準備を進めた。 フッドのテネシー方面作戦(フランクリン・ナッシュビル方面作戦)は1864年9月から12月まで続き、その間に7度の戦闘を行い、数百マイルを進んだ。11月29日、スプリングヒルの戦いでジョン・スコフィールド少将のオハイオ軍の大部分を破ることに失敗した後で、翌日のフランクリンの戦いでは、北軍の胸壁を破壊する試みも不成功となり、北軍がナッシュビルへ向けて妨害無しに撤退することを許した。2週間後、北軍のジョージ・トーマス将軍がナッシュビルの戦いで再度フッド軍を破り、フッド軍の大半が消滅して、南北戦争の間でも南軍にとって最大級の損失となった。ナッシュビルの惨劇のあと、テネシー軍の残兵はミシシッピ州に撤退し、フッドは1865年1月23日付けで大将としての任務を返上し、中将に戻った。 戦争が終わり近くなったとき、ジェファーソン・デイヴィスはフッドにテキサス州に行って新たな軍隊を起こすよう命じた。しかしテキサスに到着する前に、エドマンド・カービー・スミス将軍とそのテキサス軍が北軍に対して降伏し、フッド自身もミシシッピ州ナチェズで降伏した。フッドは1865年5月31日に仮釈放された。
※この「テネシー軍指揮官」の解説は、「ジョン・ベル・フッド」の解説の一部です。
「テネシー軍指揮官」を含む「ジョン・ベル・フッド」の記事については、「ジョン・ベル・フッド」の概要を参照ください。
- テネシー軍指揮官のページへのリンク