テネシー石炭鉄鋼鉄道会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「テネシー石炭鉄鋼鉄道会社」の解説
落ち着きを取り戻していたニューヨークであったが、また別の危機が迫っていた。11月2日土曜日、市場最大の証券会社のひとつムーア・シュレイ証券会社(Moore & Schley)が、テネシー石炭鉄鋼鉄道会社(TC&I)の株を担保に多額の負債を抱え倒産寸前であったことがモルガンらの知るところとなった。これまでの市場の混乱によってC&I株にも下落懸念が生じており、週明けには多くの銀行がムーア・シュレイに対し貸付の回収に乗り出し、パニックを拡大させる可能性が高かった。。 ムーア・シュレイの倒産を防ぐため、モルガンは土曜の朝に書斎で緊急会合を開いた。ここで、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの会社とエルバート・ゲイリーらの鉄鋼会社とが統合して設立され、モルガンが深く関わるUSスチールが、TC&I株を取得する提案がなされた。この案が現実化すれば、ムーア・シュレイは事実上救済され危機を回避することができる。USスチールの取締役会は危機的状況の中で果たすべき役割を認識し、TC&I普通株を担保に500万ドルを貸し付けるか、1株90ドルで株を取得するかの二つの案を示したが結論に至らず、その日の午後7時に会合は一旦終了した。 同じ頃、モルガンは別の難問を抱えていた。アメリカ証券取引所とリンカーン証券取引所で取り付け騒ぎがつづいており、このままでは早晩破綻する懸念があったのである。土曜の夜40人から50人の銀行家が危機への対応を協議するため、モルガンの書斎に集まった。資金決済機構には書斎の東側の部屋が、信託銀行幹部らには西側の部屋があてがわれた。モルガンとムーア・シュレイの件を対処していた者たちには司書室があてられた。モルガンには「ムーア・シュレイの救済」と二つの信託会社の救済を並行して行う気はなく、信託会社の問題は同業の信託会社たちに委ねようとした。モルガンは司書室で、信託会社が彼らの最も弱い同業者を救済する気があるならムーア・シュレイの問題に取り組むつもりであると述べていた。銀行幹部らの協議は土曜の夜遅くまで続いたが何の進展もみられなかった。深夜頃、モルガンは信託会社社長らに「ムーア・シュレイ救済のためには2500万ドルは必要になる。信託会社間でこの問題は解決可能であるという結論が出ないうちは救済を進めたくない」と述べた。これはつまり、今後信託会社はモルガンから支援を受けることができず、自力で解決策を見出さなくてはならないことを示唆するものであった。 午前3時、およそ120人の銀行と信託会社幹部がモルガンの書斎に集まり、ベンジャミン・ストロングから破綻しそうな信託会社の財務状況についての詳細な報告を受けていた。報告によれば、アメリカ信託会社は辛うじて預金者の払い戻しに応じ得る可能性があるが、リンカーン信託会社の資産は預金者への支払いに100万ドルほど足りないとのことであった。モルガンは何としても解決策を出させるため書斎の鍵を自分のポケットへしまいこんだ。これは過去モルガンがやったやり方であった。やがてモルガンは議論に参加し、信託会社に2500万ドル拠出するよう要請した。午前4時45分、モルガンはまずユニオン信託会社の社長エドワード・キングに契約書に署名させ、残りの者もそれに従った。これにより状況は解決し、モルガンは銀行家らを家に帰した。 日曜の午後から夕方にかけ、モルガン、パーキンス、ベーカー、スティルマンに加え、USスチールのエルバート・ゲイリーとヘンリー・クレイ・フリック(英語版)が集まり、USスチールとTC&I株の取り引きについて協議した。日曜の夜までにはUSスチールの買収計画がまとまったが、障害がひとつ残った。反トラストで知られるセオドア・ルーズベルト大統領がこの取引を許容するかどうか、である。 日曜深夜、フリックとゲーリーは特別列車でニューヨークからワシントンD.C.へと向かった。月曜の早朝、ワシントンに到着した2人は、シャーマン法の原則は一旦脇に置いて、10時に市場が開く前にこの大型買収を認めてくれるようルーズベルト大統領に嘆願すべくホワイトハウスへ向かった。だがルーズベルトの秘書は、大統領は10時以前には誰とも会わないと面会を断ってきた。このときフリックとゲーリーは、その場に居合わせた内務長官ジェームズ・ガーフィールドに事情を説明し頼み込むと、ガーフィールドは大統領に直接話を通し10時前に面会が許された。市場が開くまで一時間もなかったが、ルーズベルト大統領のほか国務長官エリフ・ルートが会合に参加し、買収案と買収が許可されなかった場合に起こりうる市場の暴落について説明を受け、可否を検討した。ルーズベルトは最終的に折れ、買収を黙認する形となったが、後にエルバート・ゲーリーは大統領はこの会合で「この状況なのだから、私が買収に反対する気がないと言ったとしても、誰も私を正面切って批判することはできないだろう」と述べたと証言している。この知らせはすぐさまニューヨークにも届き、コマーシャル・アンド・クロニクル紙は「この取引による救済は迅速かつ徹底的である」と論評した。最後の危機が回避されたのである。
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