自演の収拾と英国の凋落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:14 UTC 版)
「1907年恐慌」の記事における「自演の収拾と英国の凋落」の解説
この恐慌は、そのきっかけをつくった金融資本家らが収拾した。モルガンは、流動性を確保し金融システムを守る為に自身の資産を使っただけでなく、ニューヨークの銀行・信託会社を説得してマネー・プールを構築した。当時のアメリカには市場に流動性を与える中央銀行が存在していなかったため、モルガンがその役目を果たした形となった。恐慌は10月中に一旦終息したかに見えたが、11月初めに新たな問題が浮上した。大手証券会社ムーア・シュレイがテネシー石炭鉄鋼鉄道会社(英語版)(TC&I)の株を担保として3000万ドルを超える多額の借り入れをしていたことが明らかとなった。不安定な市場の煽りをうけてTC&I社の株価が暴落すれば、市場は新たな危機に見舞われるところであったが、USスチール社によるTC&I社の買収が実現し、危機は回避された。なお当時アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは独占資本を厳しく非難してきた人物であったが、この買収を黙認した。 恐慌の翌年、ジョン・ロックフェラー2世の義父としても知られるネルソン・オルドリッチ上院議員はオルドリッチ=ブリーランド法案を起草し、同法に基づいて1907年恐慌の調査と来るべき恐慌への解決策を提言するために国家金融委員会が設立された。ここで話し合われ、ジェイコブ・シフの支持も得た金融改革案が連邦準備制度設立の礎となった。 恐慌は信託会社を通じて拡大していたので、もう一つの結果を指摘する。この恐慌はイギリスの投資信託に未曾有の被害をもたらし、公開のものは当然として秘密準備金までも深く目減りさせた。恐慌のあと、イギリス投信全体の資産構成は下位証券の割合が三割を超えて、少なくとも第二次世界大戦勃発まで、この割合は増加の一途をたどった。ロンドンは投信の凋落にしたがい、国際金融市場の地位をボストンやウォール街へ明け渡した。1906年末にはイングランド銀行が指標金利を引き上げた。これは、英国の保険会社が米国の保険契約者に多額の保険金を支払うために英国から米国へ大量の金が流れ、ロンドン資本市場の流動性が低下し英国内で金が枯渇するのを防ぐためであった。しかし、この措置は投信会社を十分に守りきれなかった。
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