自治領評議会議長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:23 UTC 版)
「ジョセフ・ダドリー」の記事における「自治領評議会議長」の解説
ランドルフはダドリーの委任状を持って、1686年5月14日にボストンに着いた。そしてダドリーは5月25日に正式にマサチューセッツに着任した。彼の統治は幸先のいいものではなく、多くのマサチューセッツ評議会の議員たちが任務を拒否し、ダドリーは、面会を拒否したインクリース・マザーと和解できなかった。ランドルフによれば、ピューリタンである行政官たちは「神が、私をこの地に再び上陸させるようなことはないはずだ、と考えていたが、そうならなかったので、この上なく身勝手な方法で、自分たちの力は史上かつてないほどに大きいと主張し始めた」のだという。ニューイングランド植民地軍の士官の選挙でも、士官たちの多くが軍務を拒否したために、妥協が強いられた。ダドリーは多くの裁判官を任命したが、彼らは概して政治的に穏健で、かつての勅許をめぐる論争でも、国王の要求を聞き入れる側の方だった。ダドリーはまた、ニューイングランド北部のインディアンとの条約を更新し、自らの地位を正式に確立するために、6月にナラガンセット・カントリーを訪れた。 ダドリーは、ニューイングランド自治領の歳入を十分に上げられず、かなりの不評を買った。ダドリーに委嘱された権限では、歳入に関する新しい法の導入が認められておらず、マサチューセッツの政府は、勅許の失効を先読みしていたため、1863年にこの手の法律はすべて無効になっていた。さらに、残された数少ない歳入についても、それは旧政府時代に決められた、従って、無効なものだとして、多くの者たちが支払いを拒否した。ダドリーとランドルフによる聖公会の導入は、財源不足のため、ほとんど失敗に終わったが、財源のみならず、既存の教会施設が接収されるのではないかという政治的危機意識から、いろいろと抵抗されていた。 ダドリーとランドルフによって、航海条例は執行されるようになったが、彼らは条例の一字一句への固執はしなかった。条例の幾つかの規定が不公平であること(例えば、関税が多重に課されること)、違反行為が大目に見られていることなどを2人は理解しており、こういった状態を改善するために条例を修正すべきだと商務院に申し出た。しかしいずれにせよ、彼らの条例執行強化のために、マサチューセッツの経済は損なわれた。ダドリーとランドルフは、最終的に、商業、行政、そして宗教に関することでは不和になった。「私は、ダドリー氏から、トマス・ダンフォース氏よりもひどい扱いを受けた」こうランドルフは記し、嫌悪を込めてダドリーを強硬派の行政官と比較したのだった。 ダドリーが自治領を統治している間、商務院はニューイングランド議会からの請願をもとに、ロードアイランドとコネチカットを自治領に組み込ませることを決定した。6月に発行されたアンドロスの委任状には、書類が添付されていた。書類には、アンドロスの統治のもとで、ロードアイランド、コネチカットを自治領に編入させるよう指示されていた。
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