自治領の解体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/09 07:02 UTC 版)
自治領を構成している他の植民地もアンドロスの失脚を知り、自治領統一の各植民地当局が、それぞれの政府を復活させる動きに出た。ロードアイランドとコネチカットは、かつての勅許状の下の統治を再開させ、マサチューセッツは無効化されていた勅許状に則り、一時的に行政長官、マサチューセッツ湾植民地の官僚、そしてアンドロスの評議会の議員の大部分による委員会での統治がなされたが、急進派による暴動で乗っ取られかけているとボストンの指導者たちが気付いて、その後解散した。ニューハンプシャーはきちんとした政府を持たず、暫定的にマサチューセッツとその総督のサイモン・ブラッドストリートにより統治された。ブラッドストリートは、13植民地北部の「事実上の」統治者だった。プリマスも以前の統治方式を再開した。 収監されている間も、アンドロスは、ニューヨークにいる自治領副総督のフランシス・ニコルソンに手紙を送ることができた。ニコルソンは5月半ばに援助の依頼を受けたが、ニコルソン配下の部隊はメインにやらされており、ニューヨークで緊張が高まりつつあったこともあって、なんら効果的な行動を取ることができなかった。ニコルソン自身は、ジェイコブ・ライスラー(英語版)率いる反乱により副総督の座を追われ、イングランドへ逃げた。ライスラーはイングランドの派遣部隊が到着する1691年までニューヨークを支配し、その後はウィリアム、メアリー両国王によりヘンリー・スローター(英語版)が総督に就任した。スローターはライスラーを大逆罪のかどで法廷に送り、ライスラーは有罪となって処刑された。 ライスラーの反乱の鎮圧とニューイングランド各植民地の政府の復活の後、イングランドの官僚たちは、「砕け散った」自治領を再建しようとはしなかった。いったんアンドロスの逮捕という「既成事実」が広まってしまうと、ロンドンでの討議はマサチューセッツと、その無効化された勅許状にどう対処するかという方向に変わった。この討議で交わされた意見から、マサチューセッツ湾直轄植民地が構成されることになった。勅許状を持たないプリマス植民地や、ナンタケット、マーサズ・ヴィニヤード、エリザベス諸島(英語版)といった、かつてニューヨークに属していた地域、そしてメインのいくつかの地域をマサチューセッツと合併させたのである。インクリース・マザーの、かつてのピューリタンによる支配を復活させようという目論見は成功しなかった。新勅許状では国王から選任された総督、そして如何なる宗教も受け入れることが求められたからである。
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