自炊制への移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 01:29 UTC 版)
寮生たちは賄征伐によって食生活の改善を求めたが、食器などを壊しながらの訴えであったため、その修繕費が食事内容に跳ね返り、結果として食生活の向上は見られなかった。 第五高等中学校の寄宿寮である習学寮で起きた賄征伐は非常に激しいもので、学校幹事の椿奏一郎は「余りに下品」として、対策として生徒の管理運営による自炊制度を導入した。これは、生徒によって選出された炊事委員が献立や食材の購入を行うというものである。自炊制度は1891年(明治24年)から開始され、学生はこれを、自信と自覚を持たせるものとして歓迎した。 北海道帝大予科の恵迪寮でも賄征伐が多発し、明治30年代は、賄業者で1年以上続いたものは無かったといわれていたが、1907年(明治40年)に自炊制へと移行した。この流れは大正時代に入ると加速し、一高(1919年(大正8年))、八高(1920年(大正9年))、七高(1921年(大正10年))と、次々に移行していった。 旧制五高や旧制姫路高では、自炊制を実施した日を寮の記念日とした。たとえば旧制五高では自炊記念日に校長らを招いて式典を開き、炊事委員長の演説などを行った。会場の壁には寮生による短歌「竜田山たえすりすみの棚ひくは朝け夕けの煙なりけり」、あるいは漢詩「三載営々肝胆傾 自炊制度効功并 佳希珍味何強望 百事咬菜根可成」などが掲げられた。
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