南軍騎兵隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 09:25 UTC 版)
南部人は、特に戦争初期に北部人よりも平均して優れた騎手だと考えられていた。南部田園部の田舎道は概してお粗末なものであり、個人的な交通手段には馬が使われた。北軍の初期騎兵連隊の多くが結成された都会では馬車が使われていた。さらに南部社会は階層化されており、兵士達は指揮命令系統に慣れており、軍隊生活に適応しやすいと考えられた。また戦前の南部に強い軍隊の伝統があり、地方では奴隷を捕まえるための偵察部隊が必要となり、開戦前に騎馬部隊が発達していた。 南軍兵は自分の馬を所有し、月単位で補償された。馬が病気、怪我あるいは死ぬと、家に戻って自費で馬を置き換えることが求められた。一般的な規則では、60日以内に馬を連れて戻ってくるか、歩兵になるかであり、歩兵は恥ずべき事と見なされた。 南軍で最初に名声を得た騎兵指揮官はJ・E・B・スチュアートであり、第一次ブルランの戦いで歩兵に対して成功を収めた。きらびやかな衣装を好む大胆な指揮官であり、北軍ポトマック軍の向こうまで2度にわたって回り込む大胆さで南部大衆の人気を博した。これら長駆偵察任務には軍事的な価値がほとんど無かったが、南部の士気を高めたのは事実である。1864年にスチュアートが戦死した後はウェイド・ハンプトンが引き継ぎ、より洗練され、より効果的とされる指揮官になった。東部戦線で注目された指揮官は「南軍の黒騎士」と呼ばれたターナー・アシュビーであり、バレー方面作戦ではストーンウォール・ジャクソン軍の騎兵隊を指揮した。1862年に戦死した。 西部戦線では、最も怖れられ、最も向こう見ずな騎兵指揮官がネイサン・ベッドフォード・フォレストであり、小さな部隊で大きな成果を挙げたが、彼を支えるべき軍司令官には効率的でない部下であり、戦闘では協調性に欠けた。テネシー軍の騎兵指揮官がジョン・ハント・モーガンであり、同じような問題があったと言われている。東部戦線ではパルティザン・レンジャーのジョン・S・モスビーが100ないし150名の非正規兵で、鉄道と兵站拠点を守る4万名に昇る北軍に対抗してこれを釘付けにすることに成功した。ミシシッピ川流域戦線ではジョン・S・マーマデュークとジョセフ・O・"ジョー"・シェルビーが著名である。
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