戦場の標識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/03 19:12 UTC 版)
1959年、オクラホマ歴史協会が、オクラホマ州アトカ市の北1マイル (1.6 km) にある小さな墓地に標識を立てた。こおの標識は2014年に新しいものに置き換えられた。それには次のように書かれている。 "ミドルボギーの戦い" この場所に1864年2月13日の戦闘で死んだ南軍兵が眠る ボギー貯蔵所道路のミドル(あるいはマディ)ボギー渡しのここで南軍が宿営した。ジョン・ジャンパー中佐のセミノール大隊、アダム・ネイル大尉の第1チョクトーとチカソー騎兵隊のA中隊、テキサス第20連隊の分遣隊が、北軍に急襲された。北軍はカンザス第14騎兵隊の3個中隊であり、チャールズ・ウィレッツ少佐が指揮し、ソロモン・カウフマン大尉の榴弾砲隊の一部もいた。 南軍は武装が劣っていたものの、しっかりと抵抗して30分間激戦を行い、その中で47名が戦死し、他にも負傷者が出た。12マイル (19 km) 南西にあるボギー貯蔵所から南軍騎兵隊が向かっているという情報があり、北軍は北のギブソン砦まで急速に撤退した。死者はボギー川の西、アトカの北1マイル (1.6 km)、州道69号線の北100ヤード (90 m) に埋葬された。この墓地は、南北戦争の前に旧ボギー貯蔵所道路の旅人も埋葬した地だった。
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