カムデンへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 14:02 UTC 版)
「ジェンキンスフェリーの戦い」の記事における「カムデンへ」の解説
この方面作戦でスティールが担当した部分はカムデン遠征と呼ばれるようになった。スティールは後にその目的はカムデンに達してそこを占領することであり、バンクスがシュリーブポートを落とすのを支援するために、南軍騎兵隊をシュリーブポートから離しておくことだった。それでもバンクスは、スティールが一時的にカムデンを占領するだけでなく、シュリーブポートを占領する時に自軍に加わってくれるという作戦だった。グラントですらスティールに電報を打ち、恣意行動だけではバンクスを支援するために不十分であると告げていた。バンクスの軍隊がシュリーブポートに向かう途中のマンスフィールドの戦い(4月8日)で、数も少ないリチャード・テイラー中将の部隊に撃退された後、バンクスはルイジアナ州アレクサンドリアでその後退を止めた。バンクスはまだ作戦を再開できると考えており、シュリーブポートを攻撃する再度の試みにはスティールの援軍が加わって欲しいという願望を伝えた。 スティールは8,000名の部隊でまずリトルロックから南西のアーカデルフィアに行軍した。フォートスミスからジョン・セイヤー准将が率いて来る4,000名の部隊とアーカデルフィアで落ち合う計画だった。パインブラフから来る北軍の騎兵隊は約2,000名であり、カムデンの南軍駐屯部隊に対する監視を続けると想定され、スティール隊の動きから注意を逸らし、その後にスティール隊に合流することになっていた。スティールは予定より3週間遅れていたが、1864年3月29日にアーカデルフィアに到着した時でもセイヤーの部隊と落ち合えなかった。スティール隊は最後の3日間を雨に降られて行軍しており、既に食料が少なくなっていた。行軍の経路は貧しい田園部であり、調達しようにも食料や飼料がほとんど無かった。スティールは4月1日まで待ち、食料がさらに減り、セイヤーからの伝言も来なかったので、アメリカ連合国アーカンソー州の暫定州都である南西のワシントン方向に移動した。4月9日、リトルミズーリ川沿いエルキン渡し近くでやっとセイヤー隊と合流できた。しかしセイヤー隊もあまり物資を持っておらず、合流後の部隊はさらに物資が乏しくなった。 スティールは、バンクス軍に対抗する南軍にその騎兵5個旅団が合流しないようにしている程度のみでバンクス軍を助けられた。この時アーカンソー州の南軍指揮官だったスターリング・プライス少将の総指揮の下にあるアーカンソー州とミズーリ州の歩兵2個師団が、カムデン地域からバンクス軍に対抗する軍隊の支援に派遣されていた。ジョン・マーマデューク准将と、アーカンソー州に留まったプライスの総指揮の下に、5個旅団の南軍騎兵隊のうち3個旅団がアーカンソー州内でアーカデルフィアから移動するスティール隊に嫌がらせを行った。彼らはその緩りとした進行を止められなかった。この両軍は4月3日にリトルミズーリ川のエルキン渡しで小さな戦闘を行った。このときはスティール隊がリトルミズーリ川を渡河しようとするのをマーマデュークが阻止しようとしたが、スティール隊が勝利した。さらに4月10日にはプレーリーダンで小戦闘を行った。4月12日、スティールはワシントンの方向に見せかけの行動を行った。そこではプライスがスティールの町を占領しようという目標に抵抗するために動いていた。その後スティールはシュリーブポートに向かうには道を逸れることになるカムデンに動いて南軍との対立を避けた。スティール隊はカムデンから14マイル (23 km) でマーマデュークの騎兵隊を撥ね付けた後の4月15日にカムデンを占領した。プライス隊はアメリカ連合国アーカンソー州暫定州都であるワシントンを守るために、要塞都市のカムデンを明け渡していた。
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