マンスフィールドの戦いとは? わかりやすく解説

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マンスフィールドの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/13 07:25 UTC 版)

マンスフィールドの戦い
Battle of Mansfield
南北戦争
1864年4月8日
場所 ルイジアナ州デソト郡
結果 南軍の勝利
衝突した勢力
北軍 南軍
指揮官
ナサニエル・バンクス リチャード・テイラー
戦力
12,000 7,000(推計)
被害者数
戦死113
負傷581
捕虜または不明1,541
戦死、負傷および不明計1,000

マンスフィールドの戦い(マンスフィールドのたたかい、英:Battle of Mansfield、またはサビーン交差点の戦い、英:Battle of Sabine Crossroads、またはプレザントグラブの戦い、英:Battle of Pleasant Grove)は、南北戦争中の1864年4月8日ルイジアナ州デソト郡行われた、北軍レッド川方面作戦では最初の大きな衝突だった。

背景

ナサニエル・バンクス少将のレッド川方面作戦の目的の1つは、南軍のミシシッピ圏方面軍作戦本部であるルイジアナ州シュリーブポートを占領し、レッド川より北を支配して、テキサス州東部を占領することだった。バンクスは全軍の指揮権を持っていたが、行軍操作はウィリアム・B・フランクリン少将に代行させた。フランクリン軍は約15,000名の歩兵、5,000名の騎兵そして恐らく40門の大砲があった。フランクリン軍の南部ルイジアナからの行軍は3月10日に始まった。北軍水陸協働派遣軍はテキサス州境界の25マイル (40 km) までレッド川を遡ったが、水位が下がっていたことと、陸軍は既にある道路を使う必要性のために川から離れた内陸に向かったことのために、同行していた砲艦艦隊との連絡が途絶えていた。

3月21日以降、騎兵と海軍の小競り合いが続いていた。4月2日、北軍アルバート・リー准将の騎兵師団が到着したばかりの南軍1,500名のテキサス騎兵隊と衝突した。これらの南軍は北軍の前進に抵抗を続けることになった。一方、北軍の情報網は進路の前方にテイラー軍と騎兵隊以外に別の部隊がいることを掴んだ。北軍の上級士官達は海軍の戦隊を除けば重大な南軍の抵抗勢力があるということに疑いを表明していた。バンクス軍はテイラー軍と騎兵隊を追い、川からは離れた深い松林地域に入っており、テイラー軍が前方にいるものと予測していた。北軍はプレザントヒルに接近すると、水のある宿営地が少なく、後方の部隊の位置が掴めないために、過度に伸びきっていた。

南軍を指揮するリチャード・テイラー少将は部下のトマス・グリーン准将やカミーユ・ド・ポリニャック少将と共に、その用心深い上官でミシシッピ川より西の南軍総司令官エドマンド・カービー・スミス将軍の直接命令に逆らって、ルイジアナ州マンスフィールド近くで抵抗することに決めた。

戦闘

4月7日に、ウィルソン農園とテンマイル・バイユーで激しい騎兵戦がしばしば下馬して続いた。4月8日、グリーンの騎兵隊が進んできた北軍前衛隊に嫌がらせを行った。リーはマンスフィールドの南3マイル (5 km)のモス・プランテーションで南軍の少数騎兵隊に大胆な突撃を掛けた。リーは2個歩兵旅団の助けも借りて南軍騎兵をハニーカットヒルに追い込んだ。テイラーは深い森の経路にそってある幾つかの畑の一つの側の森に1個歩兵師団を配置していた。その日の中頃には道の反対側の森にも2番目の師団を配置した。バンクス軍が正面に到着し両軍はおそらくどのくらいの敵と面しているのか十分に分かっていなかった。北軍に援軍が到着しないのを見て取った南軍側の誰かが午後4時に攻撃を命令した。アルフレッド・ムートン准将とその歩兵隊が幅800ヤード (720 m)の畑を横切りレールフェンス背後の北軍を攻撃し流血戦になった。 ムートンはその攻撃を続け、テイラーは支援隊のウォーカー師団を含め全線にわたって押し上げた。南軍の下馬した騎兵が北軍の側面に回った。フランクリンは最初の戦闘の背後で砲兵隊と共に2番目の戦線を構築した。この部隊も結局優勢な敵に直面して逃走した。南軍は統制の取れていない北軍を攻撃し決定的に壊走させた。追撃する側も援軍に駆けつけた側も狭い道を塞いだ北軍の輜重隊でとめられた。その輜重隊は南軍の手に落ちた。バンクスはその部隊を鼓舞する時に偉大な個人的勇敢さを示したものの、今回も軍事的無能を曝け出した。

暗闇が訪れ、北軍の抵抗が堅くなったので追撃が終わった。北軍は20門の大砲、150両の輜重車を含め多くの物資を失い、およそ1,000頭の馬も殺されるか捕まえられ、その指揮が低下した。しかし、南軍は北軍の遠征隊全軍を破壊できるという期待が無くなった。多くの北軍捕虜はテキサス州の捕虜収容所であるキャンプ・フォードに送られた。

戦いの後

4月9日プレザントヒルの戦いが起こり、両軍はほぼ同数の1,600名の損失を出した。北軍にとっては戦術的勝利だったが、バンクスは、水や馬の飼料が欠乏し、補給船がどこにいるか分からず、さらに年長の士官たちの意見が割れたために、下流のナケテシュとグランド・エコールまでの急速な撤退を命じた。上流で何ものも得られなければ北軍の努力も徒労になったので、南軍の戦略的勝利となった。

関連項目

参考文献

  • Ayres, Thomas (2001). Dark and bloody ground: the Battle of Mansfield and the forgotten Civil War in Louisiana. Lanham, Md: Taylor Trade Pub. ISBN 0-87833-180-8 

外部リンク


マンスフィールドの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/29 00:39 UTC 版)

レッド川方面作戦」の記事における「マンスフィールドの戦い」の解説

詳細は「マンスフィールドの戦い」を参照 4月7日に、ウィルソン農園とテンマイル・バイユーで激し騎兵戦がしばしば下馬して続いた4月8日リーマンスフィールドの南3マイル (5 km)のモス・プランテーションで南軍少数騎兵隊大胆な突撃掛けたリーは2個歩兵旅団助け借りて南軍騎兵をハニーカットヒルに追い込んだテイラー深い森経路にそってある幾つかの畑の一つの側のに1個歩兵師団配置していた。その日中頃には道の反対側のにも2番目の師団配置したバンクス軍が正面到着し両軍はおそらくどのくらいの敵と面しているのか十分に分かっていなかった。カービー・スミスはこの現場にいなかった。北軍援軍到着しないのを見て取った南軍側の誰かが午後4時攻撃命令した。アルフレッド・ムートン准将とその歩兵隊が幅800ヤード (720 m)の畑を横切りレールフェンス背後北軍攻撃し流血になった一方南軍のヘンリー・マトン提督の艦隊ポーター艦隊攻撃していた。 ムートンはその攻撃続けテイラー支援隊のウォーカー師団含め全線わたって押し上げた南軍下馬した騎兵北軍側面回ったバンクス支援求めた時刻議論対象となっているが、その部隊は間に合わず正面包囲されるのを止められなかった。フランクリン最初の戦闘背後砲兵隊と共に2番目の戦線構築した。この部隊結局優勢な敵に直面して逃走した北軍背後の狭い道では幾つかの荷馬車転覆され、北軍大砲捕獲された。南軍兵士北軍荷馬車略奪するために停止した。 マンスフィールドの戦いは終わった結局北軍は2,900名の損失を蒙った。南軍損失は約1,500名だった。ムートン准将損失の中の一人であり、その日遅く戦場死んだ北軍艦隊南軍艦隊敗北した南軍指揮統制戻り追撃に移るとその部隊は、北軍3番目の部隊、ウィリアム・エモリー将軍の約5,800名がバンクスフランクリン命じられてチャットマン・バイユーを見下ろす尾根の上にいるのに出くわした北軍側はそこをプレザント・グラブと呼んだ。夜が訪れバンクス軍がこの場所を取ろうという試み撃退したのは明らかだったが、北軍貴重な確保していなかった。翌4月9日テイラーバンクス軍がプレザントヒルまで撤退したことを知った欠乏したことと、A・Jスミス隊が追随してくるか分からなかったことが恐らくは撤退大きな理由だった。

※この「マンスフィールドの戦い」の解説は、「レッド川方面作戦」の解説の一部です。
「マンスフィールドの戦い」を含む「レッド川方面作戦」の記事については、「レッド川方面作戦」の概要を参照ください。

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