ミシシッピ圏方面軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/23 04:15 UTC 版)
「エドマンド・カービー・スミス」の記事における「ミシシッピ圏方面軍」の解説
1863年1月、スミスはミシシッピ圏方面軍(主にアーカンソー州、西部ルイジアナ州およびテキサス州管轄)指揮官に配転され、戦争の残り期間ミシシッピ川より西部の指揮を執ることになった。北軍ユリシーズ・グラント少将の軍隊がしっかりとミシシッピ川を制していたので、スミスはその妨害を試みた。しかし、その軍隊は広大な地域に駐屯しながら総勢3万名を超えることは無く、川を守るグラント軍や海軍に適切に挑戦するだけの軍隊を集結できなかった。 南軍に残っていた強固な要塞であるビックスバーグとポートハドソンが北軍に占領され、ミシシッピ川が閉鎖された後は、実質的にアメリカ連合国の首都リッチモンドから切り離されたことになり、アメリカ連合国の事実上独立した地域をそこに固有の管理上の問題全てと共に指揮していくことになった。この地域はアメリカ連合国の中でも「カービー・スミス王国」と呼ばれるようになった。 1864年春、スミスの直接指揮下にあるリチャード・テイラー中将が4月8日のレッド川方面作戦におけるマンスフィールドの戦いで北軍のナサニエル・バンクス少将軍に完勝した。4月9日のプレザントヒルの戦い後、スミスはテイラー軍と合流し、テイラー軍の半分であるジョン・ジョージ・ウォーカー少将指揮下のウォーカーズ・グレイハウンド師団を、アーカンソー州に侵入している北軍フレデリック・スティール少将軍を破るために北へ派遣した。この決断に付いてはテイラーが強く反対し、スミスとテイラーの間に大きな反目を生んだ。 スミスは圧力から解放されてミシシッピ川の東へ援軍を送ろうとしたが、以前に試みたビックスバーグの解放のための場合と同じく、川をアメリカ海軍が支配しているために不可能だとわかった。その代わりにスターリング・プライス少将にあらゆる利用可能な騎兵隊をつけてミズーリ州侵略に派遣したが、結果はうまく行かなかった。その後ミシシッピ川より西の戦争は基本的に小さな襲撃やゲリラ戦となった。このとき大将となっていたスミス(1864年2月19日付け、南軍のわずか7人の大将の1人)は1865年5月26日に唯一残っていた南軍の意味ある軍隊であるミシシッピ圏方面軍とともに降伏し、6月2日にテキサス州ガルベストンに到着し、そこからメキシコと続いてキューバに逃亡し、反逆罪で告発される可能性を避けた。1865年11月14日にバージニア州リンチバーグに恩赦の誓約をするために戻った。
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