ミシシッピ会社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 13:46 UTC 版)
ローはフランス領ルイジアナのミシシッピ開発の成功を担保とした不換紙幣の発行を主唱した。これがミシシッピ計画である。当時のフランスは極度の財政赤字であり、ローの提案する旨い話に乗ってしまい、ローに多大な権限を与えてしまう。ローの具体的な功績は管理通貨制度を実行し、フランスを金属貨幣経済から紙幣経済に移行させた点である。1716年5月2日、「バンク・ジェネラール」(一般銀行、総合銀行)を設立し、これは1718年12月に、ルイ15世の認証を受け、フランス初の中央銀行である「バンク・ロワイアル」(フランス王立銀行)に発展し、ローは同行総裁に就任する。1717年4月10日には同行の銀行券での納税を可能とし、紙幣の使用はフランス中に広まっていく。さらに、1717年9月6日に、「西方会社」を資本金1億リーブルで設立し、これは1719年5月に、東インド会社や中国会社など諸会社を統合継承し、フランスの海外貿易特権を一手に握る「インド会社」、通称「ミシシッピ会社」に改組され、ローは同社総裁に就任する。1718年にはミシシッピ川河口にニューオーリンズが建設される。しかし宣伝とは裏腹に、ミシシッピ開発は上手くいっていなかった(が、フランス国民は知らなかった)。当時、フランス国債は、既に信用を失っており、市場価格は額面価格を大きく下回っていた。ローは国債を額面価格でミシシッピ株式会社の株式に転換できるようにした。人々は争って(政府に償還義務のある)国債を(政府に償還義務の無い)株式に交換し、ローの銀行は大量の紙幣を刷って株式の配当の支払いに充てた。ミシシッピ計画は、フランス王室を巨額の債務から解放し、ルイ14世が生み出した多大な財政赤字の解消に寄与した。ミシシッピ会社株は、ミシシッピ開発が生み出す実際の価値以上の値を付けるバブルとなった。株価は一株500リーブルから10,000リーブルへと20倍に膨れ上がった。1720年5月までに、紙幣に換金可能な株と紙幣を合わせた通貨供給量は、リーブル換算で以前の4倍となり、フランス経済は空前の好景気に沸いた。1720年1月5日にローはフランスの財務総監に任命される。しかし、同年5月に取り付け騒ぎが起こると支払い能力以上の現金が引き出され、ミシシッピ会社株は暴落、バブルは崩壊し、ミシシッピ計画は破綻した。ローは同年5月29日、財務総監を辞任、同年12月20日、フランス国外へ逃亡し、イギリス(過去の殺人については赦免された)に4年間いた後、最期はヴェネツィアで亡くなった。計画の破綻はフランス大革命の遠因を作り出すこととなった。 ローの時代に間接税の徴収はミシシッピ会社が行っていた。解体されてから再び徴税請負制に戻された。1726年に国王が総請負人と契約し、年間8千万リーブル期間6年の徴税権を与えた。総請負人は株式会社をつくって国王への前貸し金800万リーブルを手形発行で調達した。前貸し金は短期公債の例にもれず累積していった。1750年の契約では徴税額8千万リーブルに対して前貸しは2000万リーブルに、1756年の契約では徴税額1.1億リーブルに対して6千万リーブルに、1768年では徴税1.32億に対し前貸し9200万となった。利幅のすさまじい原因は財政の苦しさの他、請負会社の暴力性にもあった。武装した会社は貴族やブルジョワの家宅捜査を自由に行い、脱税者を投獄する権限もあったという。この会社は革命で解体されるまで、税収の4割以上を徴収した。
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