ミシシッピの自由の夏:1964年
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「ミシシッピ州の歴史」の記事における「ミシシッピの自由の夏:1964年」の解説
1964年の夏、連邦組織委員会は州外から100人以上の学生をミシシッピ州に連れてきて、有権者登録のための地元の活動家に加わらせ、「自由の学校」で教えさせ、ミシシッピ州自由民主党を結党させた。多くの白人住人は外来者とその社会を変えようという試みに大きな不満を抱いた。その作業は危険だった。活動家達は脅かされた。 1964年6月21日、3人の公民権運動家、若い黒人ミシシッピ人で左官の奉公人であるジェムズ・チェイニーと、ニューヨーク州からきた2人のユダヤ人ボランティア、クィーンズ大学生アンドリュー・グッドマンとソーシャルワーカーのマイケル・シュワーナーがクランのメンバーに殺された。そのメンバーのうちの数人はネショバ郡保安官の部局の一員だった。3人が消されたことによって国民の間に大混乱が生じ、ジョンソン大統領はジョン・エドガー・フーヴァーに命じてFBIに捜査させた。 FBIは8月4日にミシシッピ州フィラデルフィアの郊外にある土盛りダムで公民権運動家達の死体を発見した。この捜査の間に、過去数年間に殺され行方が分からなくなっていたが、地元社会以外では注目されていなかった他の数人のミシシッピの黒人の遺体も発見した。 これら若い活動家達の殺人は国中の注目を集めた。ジョンソン大統領はこの死に対する怒りと老練な政治手腕を使って、1964年の公民権法の成立をもたらせ、7月2日に署名した。この法は公共施設、雇用および教育で人種差別を禁じた。これには選挙権に関する条項もあったが、選挙権の保護は1965年の選挙権法の成立でより実質的に規定された。 多くのユダヤ系アメリカ人が公民権運動を支持した。1964年ミシシッピ州自由の夏には、若いユダヤ人活動家がボランティアの中の半数近くを占めていた。公民権活動に関わった南部で働く弁護士の半数がユダヤ人だった。
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