ルイジアナにおける絶対主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:18 UTC 版)
「フランス領ルイジアナ」の記事における「ルイジアナにおける絶対主義」の解説
アンシャン・レジームの指導者がヌーベルフランスの管理を行い、奨励したとしても、それには多くの異なる理由があった。 アンリ4世(1553年-1610年)の治世は、ヌーベルフランスの植民地化に重要な推進力となった。ブルボン朝の初代フランス王であるアンリ4世は、個人的に外国の事情に興味を持った。17世紀、宰相のリシュリューとコルベールは植民政策を推進した。ルイ14世とその閣僚はヨーロッパの他の国家と常に争っている王国の大きさに懸念を抱いていた。ヨーロッパの対立関係と政治的な同盟ゲームはルイジアナの歴史に直接あるいは間接に大きな影響を及ぼした。新世界におけるイギリスの影響力を制限したいという望みが常に王家の政策であった。 太陽王ルイ14世は、北アメリカの仲裁者の外患と対抗する力を制限することに注意を払った。ルイ14世は貴族院すなわち議会を欲しなかった。1685年にはヌーベルフランスにおけるすべての出版を禁じた。1660年代、植民地は王家の財産であった。1712年から1731年にかけて、フランス領ルイジアナは裕福な実業家アントワーヌ・クローザットの支配下に入り、その後ジョン・ローによって作られたミシシッピ会社が管理し植民地に入る移民の募集を行った。1731年、ルイジアナはフランス王家の支配下に戻った。フランス本国とは逆にパリの法律に基づく同じ法律(当時としては平等主義的)が植民地全体に適用された。これは暫く平衡を図るものとして働き、権威に対する暴動や反乱が稀なものとなった。しかし、中央集権化された政府はフランスとルイジアナを分かつ距離を考えれば無理があった。17世紀の終わりから18世紀の初めに掛けて、メキシコ湾の植民地人はほとんど完璧に自分達だけでやっていくしかなくなり、本国よりも先住民族をはるかに当てにするようになっていた。しかし、この距離が利点になることもあった。植民地人が密貿易をやっても罪に問われなかったからである。ルイ14世の海軍と貿易に関する大臣ジャン=バティスト・コルベールは国庫を膨らませることに熱心であった。コルベールは貿易会社を解散させ、国と植民地における生産量の増加に注意を払った。重商主義者としてのコルベールはできる限り多くのものを売り、輸入に頼らないことが必要だと考えた。フランスの貿易独占を目指した。君主制の出費を抑えることを欲した。しかし、アメリカの植民地を動かして行くには多くの金を投資し、重要な人的資源を活躍させる必要があった。フランス本国では経済的な基盤(工場や港)に多くの労力が割かれたが、ルイジアナでの投資は不十分であった。人や物を動かす機能について何の計画も立てられなかった。一方でフランスの懐は戦争のために疲弊していたが、ルイジアナの植民地人は本国に税金を納める必要が無く、悪名高い塩税も免れていた。
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