アメリカの植民地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「アメリカの植民地」の解説
詳細は「米比戦争」、「フィリピン独立法」、および「フィリピンの歴史#アメリカ植民地時代」を参照 1898年、アメリカは米西戦争でフィリピン独立を援助するためにスペインと戦ったはずだったのに、のちのパリ条約では2,000万ドルでフィリピンを購入、自国の植民地にしようとした。1896年以来スペインからの独立のために戦ってきたフィリピン人たちは独立を宣言したが、アメリカから11,000人の地上部隊がフィリピン占領のために派遣され、反抗するフィリピン人60万人を虐殺した。1899年1月1日にはエミリオ・アギナルドが初代大統領に就任し、その後マロロスで議会を組織してフィリピン第一共和国(マロロス共和国)が成立、米比戦争がはじまった。1901年、アメリカ軍はアギナルドを逮捕し、フィリピンはアメリカの主権下におかれ、翌年にはフィリピン組織法が制定された。 米比戦争は1913年まで続き、アメリカはフィリピン領有開始から1906年までは人民の武力闘争を徹底的に弾圧する方針をとったが、1907年開設の議会以降は、立法や行政については、フィリピン人への権限の委譲をすすめていった。ウィルソンが1912年に米大統領に選ばれたこともこの傾向に拍車をかけた。1916年には二院制議会が開設されている。 しかし、経済面ではアメリカに大きく依存した商品作物生産がすすんだため、零細な自作農は小作農に転落し、窮乏化した農民たちは反乱をくり返した。1920年代から30年代にかけては、世界恐慌の影響もあって、農村の社会不安が一挙に表面化し、1931年以降はラモス父子によってサクダル運動が展開された。サクダル運動は、アメリカの植民地支配よりもむしろ自国の大地主にむけられていた。 1934年にはフィリピン独立法(タイディングス・マクダフィー法)が成立して10年後のフィリピン独立を承認、翌35年にはフィリピン・コモンウェルス(フィリピン独立準備政府)が発足してマニュエル・ケソンが大統領に就任した。
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