アメリカの日中戦争への軍事介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
「第二次世界大戦」の記事における「アメリカの日中戦争への軍事介入」の解説
さらにアメリカは、1940年8月に蔣介石総統と宋美齢夫人からの数度にわたる軍事支援の要請を受け、大統領ルーズベルトの指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下、アメリカ合衆国義勇軍 (American Volunteer Group, AVG) を設立し、ここに日中戦争へのアメリカによる本格的な軍事介入を開始した。 アメリカ陸軍将校のクレア・リー・シェンノートはルーズベルトの後ろ盾を得て、その後アメリカ軍内でパイロットの募集を開始したが、なかなか人が集まらず「日本軍の飛行機は旧式である」というならまだしも、「日本人は眼鏡をかけているから、操縦適性がない」と人種差別的な見通しを述べてまで募集する面接官もいた。 最終的に、カーチスP-40などの約100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、日本を刺激せぬようシェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め、1941年3月に中華民国に送った。部隊名は中華民国軍の関係者からは中国故事に習い「飛虎」と名づけ、「フライングタイガース」の名称で知られるようになる。またシェンノートは健康上の理由により軍では退役寸前であったが、蔣介石は空戦経験の豊富な彼をアメリカ義勇軍航空参謀長の大佐として遇した。義勇兵は月給1000ドルであった。 シェンノートらAVGのメンバーは、日本を刺激せぬようあくまで「民間人」として、友好国イギリスの植民地のビルマに向け渡航、現地にて正式に中華民国軍に入隊し、イギリス−領ビルマのラングーン(現:ヤンゴン)の北にあるキェダウ航空基地を借り受け本拠地とし日本軍と対峙した。ここでのAVGの目的は、中華民国軍への援助物資の荷揚げ港であるラングーンと中華民国の首都である重慶を結ぶ3,200kmの援蔣ルート(「ビルマ・ロード」)上空の制空権を確保することであった。 だがフライングタイガースは、日本軍の最新鋭の零式艦上戦闘機をはじめとした最新の航空機と練度が高い戦闘機乗りの多さ、さらに中華民国軍の事故の多さに悩まされて苦戦を強いられた。さらに、撃墜数による出来高制の給与(日本軍機を1機撃墜することに500ドルのボーナス)のために、ボーナスをもらうべく実際の倍以上の撃墜報告をする有様であった。さらに1941年12月に正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって「義勇軍」の意味はなく、1942年7月3日にアメリカ軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。
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