「フライング・タイガース」
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「クレア・リー・シェンノート」の記事における「「フライング・タイガース」」の解説
「フライング・タイガース」も参照 5月中旬、シェンノートは神戸を経て上海に降り立った。前述の理由から、表向きはサーカスの副マネージャーという肩書であったシェンノートは航空参謀長の地位(階級は大佐)で雇い入れられた。当初、契約は3か月の予定であったが、1937年7月7日に日中戦争に全面突入したため、留まる事となった。専用機として中国側が購入したカーチスホーク75Hをもらい受ける。11月、漢口にてヴィンセント・シュミットを指揮官としアメリカ・フランス人義勇兵からなる国際第14大隊を結成。中国空軍が購入する新鋭機の乗員として当てがわれた。12月にマーチンB-10で第3大隊と連携し、王浜飛行場空爆などを行う。翌年2月7日と27日にはヴァルティV-11で日本軍陣地や移動中の部隊、舟艇などを攻撃するが、バーで飛行機の情報を口走るような防諜意識の低さなど素行面に問題のある人物が多かった事、また宋美齢が事故で負傷し秘書長の職務を一時的に降りた事により、中国空軍との亀裂が深まった。最終的に、日本本土へのビラ散布計画のため、中国空軍側がB-10を一方的に徴発、激怒した義勇兵の一人エルヴィン・ギボンが銃を発砲する騒ぎを起こした。これが決定打となり、国際第14大隊は1938年3月22日に解散した。 その後、蔣介石委員長からの軍事支援の要請を受けたフランクリン・D・ルーズベルト大統領の指示を受け設立された「ワシントン中国援助オフィス」の支援の下に、アメリカ合衆国義勇軍(American Volunteer Group、AVG)を設立し、カーチスP-40などの100機のアメリカ製の最新鋭戦闘機と、シェンノートと同じくアメリカ軍籍を一時的に抜いて「民間人による義勇兵」となったパイロット100名、そして200名の地上要員をアメリカ軍内から集め中国大陸に送る。 パイロット募集の結果、シェンノートの下にはかつて彼と共に飛んだ「フライング・トラピーズ」のメンバーも数名加わり、それなりにベテランパイロットは揃い始めた。しかしその後は思ったように集まることはなく最終的にはシェンノートが理想としていた基準は落とさざるを得なかった。募集名簿がすべて埋まった時、AVGのパイロットは39州から海軍50名、陸軍35名、海兵隊15名の合計100名で編成された。しかし戦闘機訓練と航空機射撃の訓練を受けてきたパイロットはこの中の僅か1/3しかおらず、むしろ爆撃機の経験者の方が多く機体の扱いなどには未熟な者も多かった為、中国現地にてメンバーに対しての再訓練が必要であった。一方、中華民国軍兵士のパイロット訓練にも当たった。
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