AVGフライングタイガースの解散とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:05 UTC 版)
「フライング・タイガース」の記事における「AVGフライングタイガースの解散とその後」の解説
残存戦力を使い補給線の護衛に徹したが、このころになると各地でアメリカ軍やイギリス軍などの連合国軍を圧倒し、物量で押す日本軍を食い止めることはできなくなっていた。ビルマ・ロードも閉鎖され、とうとう補給線はインドからのヒマラヤ山脈越えの輸送「ハンプ越え」しか残っていなかった。そしてこの輸送機も、日本軍が「辻斬り」と呼ぶ隼戦闘機による襲撃で、しばしば損害を出していた。 正式に日本に宣戦布告したアメリカにとって義勇軍の意味はなく、1942年7月3日、軍はAVGに対して正式に解散命令を出した。解散命令を受託したシェンノートは部隊を解散し残存戦力を中国・ビルマ方面に展開するアメリカ軍第10空軍の部隊で編成された中国空軍機動部隊 (CATF) に編入させた。この7ヶ月間に生き残ったAVGパイロットのうち僅か5名がシェンノートと共にアメリカ空軍に復帰、そして残りのメンバーは報奨金を受け取り祖国アメリカに帰るものもいれば、現地に残り輸送機パイロットとして働く者もいた。 AVGフライングタイガースの解散の日、アメリカで自国支持を自ら訴えた蔣介石の夫人である宋美齢はAVGメンバー全員に対し賛辞を送っている。そして彼らを夫人は「フライング・タイガー・エンジェル」と呼んだが、日本と激戦を何年も繰り返して力を削がれていた彼らは国共内戦で破れ、夫人と共に台湾になだれ込んだのであった。
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