日本軍航空隊との最初の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:05 UTC 版)
「フライング・タイガース」の記事における「日本軍航空隊との最初の戦闘」の解説
その後1941年12月8日に日本とアメリカ、イギリス間で開戦した(太平洋戦争(大東亜戦争))。国民党軍の駆逐を目標に友好国のタイに基地をおいた日本軍は12月20日から盛んに爆撃機を飛ばしていった。この攻撃を防ぐためシェンノートは第一、第二戦隊をキェダウから北の昆明に移動、護衛無しで飛来した独飛82中隊所属の九九式双発軽爆撃機10機と遭遇した。P-40の攻撃に対し、双軽は直ちに爆弾を投棄して待避行動に入った。 結果、AVGは撃墜5機を報じたが、日本側の記録では実際に墜ちたのは第2編隊の3機で、残りの7機への数発の被弾で機上戦死者2名とある。一方、P-40の損失は1機(燃料切れで不時着、部品取り用に回収)のみであった。これは日本陸軍航空隊の中国・ビルマ戦線における初めての作戦失敗となりその後1年の間、この空域への偵察機以外の侵入は無くなった。 シェンノートはその後現地中国人を使い日本軍航空機の早期警戒システムを作りあげた。地上の現地人監視員(ウォッチャー)がもし敵機を見かけたら、無線などで敵機の進行コースなどをAVG司令部に連絡する方式であった。この警戒システムは非常に有効で日本軍が到着する前に正確な作戦を立てることができ、またAVG各部隊は適切な配置で迎撃を行うことができた。しかしビルマ方面ではこのシステムはうまく働かず、基地が日本軍により奇襲を受けた。 1941年の後半に入るとシェンノートは近くのイギリス空軍 (RAF) に対して、イギリス領ビルマの首都ラングーンの防衛目的のために第三戦隊「ヘルズ・エンジェルス」を貸し与え防衛させる。
※この「日本軍航空隊との最初の戦闘」の解説は、「フライング・タイガース」の解説の一部です。
「日本軍航空隊との最初の戦闘」を含む「フライング・タイガース」の記事については、「フライング・タイガース」の概要を参照ください。
- 日本軍航空隊との最初の戦闘のページへのリンク