日本軍総攻撃とは? わかりやすく解説

日本軍総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)

サイパンの戦い」の記事における「日本軍総攻撃」の解説

6月16日アメリカ軍輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数膨大な量の物資揚陸し、戦力充実図り激し攻撃加えてきた。前日終日渡ってアギガン岬を死守し、何度もアメリカ軍撃退した独立歩兵316大隊であったが、第4海兵師団攻撃包囲され壊滅しアギガン岬も占領された。また、第2海兵師団と第4海兵師団占領地中間にあるアフェトナ岬にも第2海兵師団進撃波止場立て籠もった日本軍守備隊艦砲射撃痛めつけたうえで、アムトラック進撃したものの、日本軍砲撃により撃破されてしまった。攻めあぐねたアメリカ軍はさらにM4中戦車投入して午前1155分にアフェトナ岬を占領した。これによって、1日たってからようやく第2海兵師団と第4海兵師団連絡取れ確保した波止場によって物資揚陸円滑となったため、第2海兵師団作戦将校は「事態今や好転しつつある」と作戦経過報告している。占領地連結され連携して進撃が可能となった第2海兵師団と第4海兵師団、は徐々に前進していき、チャラン・カノア東側防衛していた高射砲第6中隊は、高射砲平射撃してアメリカ軍戦車6両を撃破した反撃壊滅し、第23海兵連隊昨晩失った製糖工場奪還している。またヒナシス付近の同第2中隊アメリカ軍攻撃壊滅し生存者50名はタポチョ山撤退した。 同16日アメリカ軍潜水艦フライングフィッシュ」がサンベルナルジノ海峡航行する空母戦艦からなる大艦隊を発見、また「シーホース」もレイテ湾沖で日本艦隊発見しており、これを第一機動艦隊出撃判断したスプルーアンスは、6月18日予定されていたグアムの上作戦無期限延期決めて第58任務部隊第一機動艦隊迎撃向かわせることとした。スプルーアンス旗艦重巡洋艦インディアナポリス」をターナー旗艦「ロッキー・マウント」に接舷すると、ターナー呼び出し輸送艦隊のサイパン沖合への一時的な退避命じたターナー上陸部隊苦戦しており、弾薬補給の必要性などから一旦は拒絶したが、スプルーアンスは「日本艦隊やってくるぞ」と危機感を煽って最終的に承諾させた。 沖合退避する際に、輸送船上の兵力を少しでも減らすため予備兵であったアメリカ陸軍の第27歩兵師団の第165歩兵連隊と第105歩兵連隊上陸させたので、結果的にサイパンアメリカ軍陸上部隊強化される事となった。第165歩兵連隊6月17日未明から上陸準備開始し午前3時30分から上陸開始したが、水際は既に海兵隊により掃討されており損害はなかった。そして、午前7時30分には第27歩兵師団の第105野砲大隊上陸終えて上陸後2日間で死傷者2,200人という大損害を被っていた第4海兵師団後衛として投入され、第4海兵師団目標とされていたアスリート飛行場向けて進撃開始した。もう一方の第105歩兵連隊の上陸は遅れて午前中いっぱいかかってしまったが、第105連隊の2個大隊分割されて、それぞれ第4海兵師団と第165歩兵連隊予備兵力に回されることとなった。第165歩兵連隊と第105歩兵連隊上陸させたあと、身軽となったアメリカ軍艦船沖合退避していく姿を見てアメリカ軍撤退していくと誤認した日本軍士気一時的に高まった6月16日夜に前日より続けてきた戦力集結目途がついた為、斎藤より守備隊総力挙げて逆襲下令された。再度戦車第9連隊五島戦車単独攻撃主張したが、またも鈴木押し切られ歩兵との連携攻撃となった攻撃目標はオレアイに設置されアメリカ軍無線局とし、戦力中地区地区守っていた歩兵136連隊第1大隊戦車第9連隊主力とし、独立歩兵315大隊歩兵第18連隊第1大隊、と砲兵隊海岸壊滅した部隊残存であった攻撃開始時刻アメリカ軍夜襲対策として防御固め夜半ではなく夕方17時としたが、結局準備手間取り攻撃開始深夜6月17日2時30分が攻撃開始時間となった日本軍戦車運用法薄暮黎明攻撃中心とし、その猛訓練積んできており、歩兵のように夜襲寝込みを襲うといった斬り込み思想での訓練は殆どやっておらず、連係攻撃未熟な43師団歩兵連れて夜襲攻撃戦車第9連隊手枷足枷をつけているようなものであった上陸部隊撃破自信深めていた日本軍は、夜襲であるにも関わらず総攻撃意図を全く隠そうとせずに、各部隊堂々と行進し大声愛国的な訓示行い多くの旗を打ち振っていたが、その様子は沖合停泊していたアメリカ軍艦船からも確認できたという。 戦車第9連隊30両の戦車にはそれぞれ歩兵数名乗り込んでおり、いわゆるタンクデサントによる突撃となった。本来であれば戦車部隊横隊突撃するのが理想的であるが、地形的に2列縦隊での突撃余儀なくされ、水平に砲撃すれば前の車輌当たってしまうため、仕方なく空に向かって砲撃せざるを得なかった。一方アメリカ軍M4中戦車多数揚陸済みであり、他にも大量M3 37mm砲新兵器バズーカ対戦車砲搭載したM3 75mm対戦車自走砲待ち構えていた。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来初めて受ける大規模な戦車からの攻撃大きな混乱おこってもおかしくなかったが、夜間日本軍戦車隊全体像が判らなかったので、かえって視界内の限られた戦車への対策集中できて、海兵隊兵士大きな混乱生じなかった。一方で攻撃側戦車第9連隊不慣れな縦隊突撃行ったので、たちまち指揮系統混乱してしまい、まとまった作戦行動はとれず、4、5輛の戦車一団としてまとまって突進しなかには沼地はまって動けなくなる戦車もあった。 それでも、戦車第9連隊戦車は、第2海兵師団第6海兵連隊陣地突入したが、そこで待ち受けていたのが海兵隊員装備していた新兵器バズーカであった装甲の薄い日本軍戦車バズーカ命中すると、ほぼ同時に装甲貫通して内部炸裂擱座する戦車続出した。第6海兵連隊海兵隊員は、初めての多数戦車による攻撃に全く怯むことはなく、陣地立ち止まって激しく抵抗したなかでもロバート・S・リード一等兵は、バズーカ4発を日本軍戦車4輌に命中させたのち、ロケット弾尽きると日本軍戦車によじ登って、砲塔内に焼夷手榴弾投げ込んでその戦車擱座させるという活躍海軍十字章授与されている。チャールズ・D・メリットハーバート・J・ホッジスの両二等兵バズーカ抱えて蛸壺壕飛び出すと、1発発射しては走って位置移動してまた発射するということ繰り返して7輌の日本軍戦車命中させたと主張したM3 37mm砲威力発揮して次々と日本軍戦車撃破されていった。空には無数の照明弾打ち上げられ白昼のような明るさの中で、M4中戦車戦場到着して97式中戦車との戦車戦が行われたが、砲撃練度日本軍勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対しM4中戦車砲弾易々と97式中戦車95式軽戦車撃破していった戦車の上乗っていた歩兵激し射撃死傷者続出して殆どが振り落された。あらゆる火器浴びせられる中で日本軍戦車絶望的な戦い続けており、下田四郎搭乗していた95式軽戦車は、第3中隊長の西館法夫中尉搭乗する97式中戦車改と併走していたが、中隊長車にはバズーカ命中し爆発炎上した中隊長車からは西館以下誰も脱出できず、全員戦死したものと思われたが、脇目もふらずにさらに突進したところ、キャタピラバズーカ命中し走行不能となってしまった。戦車長の中尾曹長指示で3名の戦車兵戦車から脱出車載機銃取り外して近く窪地潜むこととした。目の前で激し戦闘続いており、数十m先ではバズ-カが命中して撃破された97式中戦車の中から一人戦車兵飛び出すと、軍刀振りかざしながら敵陣突撃していった。そのような光景見てたたまれなくなった下田は、自分機銃抱いて突撃しようと身構えたが、戦車長の中尾が「死に急ぐな、戦闘これからだぞ。この場は俺にまかせろ」といって強く制止した。 なおも突進しあと一歩アメリカ軍砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車足止めしたのは、M101 105mm榴弾砲砲撃艦砲射撃であった最後の日本軍戦車は朝7:00海岸近くまで達して海上海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃浴びせられた。榴弾砲や75mm対戦車砲が、日本軍戦車撃破にあまり活躍できなかったのは、総攻撃伴って行われた日本軍支援砲撃が非常に効果的であったためで、日本軍観測兵はアメリカ軍砲兵陣地24時間渡って詳細に観察し、その位置関係図面にしていたので、極めて正確な砲撃ができた。日本軍砲撃によりM101 105mm榴弾砲5門と75mm対戦車砲3門が撃破されて、海兵隊砲兵多数死傷者生じて砲撃能力低下していた。夜が明けて戦場くすぶる日本軍戦車中には、まだ戦車兵生存しているのか砲塔回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲砲撃によりトドメ刺された。この戦車第9連隊突撃アメリカ軍97名の海兵隊員死傷した戦闘開始されて2時間経過した朝7時には、連隊長車で砲塔に白い点線鉢巻き塗装がしてある97式中戦車改「あそ号」も、かえってその白い点線目印となりアメリカ軍集中攻撃された。勇敢な海兵隊員戦車砲下部操行器に手榴弾投擲し、転輪吹き飛び走行不能となって撃破されている。「あそ号」を含めた29輛の戦車第9連隊戦車戦場至る所燻っており、唯一仁科信綱軍曹車長の1輛のみが生還した戦場をあとにし、中隊本部後退する下田らは仁科戦車合流したが、その際仁科より「友軍全滅したぞ、連隊長殿の戦車擱座した。おそらく戦死されただろう」と連隊長五島戦死聞かされている。撃破された戦車からからくも脱出した下田戦車兵は、どうにか2日かけてタポチョ山東側連隊本部にたどり着いたが、撃破された29輛の110名の戦車兵のうち、生還できたのはわずか30名ほどで、連隊長以下3/4戦死していた。一方で日本軍最大戦車攻撃撃退したアメリカ軍海兵隊兵士らは、明るくなって戦場多数残されていた日本軍戦車残骸見て非常に志気高まり戦車近く動けなくなった日本兵負傷者探して殺害して回っている。アメリカ軍サイパン日本軍戦車数を150輌から200輌と実際よりは多めに見積もって、それに対抗するため大量バズーカ対戦車砲持ち込んでおり、その過大見積功を奏することとなった。第2海兵師団長のテリブル恐怖の)トミー」ことトーマス・E・ワトソン英語版少将はこの戦闘の後、「我々はこれ以上サイパンでは日本軍戦車恐れる必要はないと思うよ。たくさんやっつけたからね」と述べている。 戦車第9連隊随伴し歩兵各隊についても、五島懸念通り戦車連携することができず、海兵隊重機関銃4個小隊銃撃によって戦車切り離されてしまい個別撃破されることとなった歩兵各隊昨日より格段に強化されアメリカ軍陣地前に死傷者続出で、歩兵136連隊は1個大隊程度兵力にまで落ち込んで退却歩兵18連連第1大隊久保大隊長以下殆どが戦死し海軍唐島挺身隊全滅した連夜渡った水際での逆襲はいずれ撃破されて、水際撃滅作戦失敗終わったが、アメリカ軍上陸3日間で5,000名以上の予想外戦死傷者出していた。ホーランド・スミス指揮所には各大隊死傷者数記入された表が掲示されていたが、情報が錯綜している中で数字不完全なもので、第2海兵師団第8海兵連隊の第2、第3大隊死傷率は40%と詳細に報告されている大隊もあれば、上陸時唐島挺身隊夜襲大損害を被っていた第4海兵師団23海兵連隊については「被害甚大、特に第23海兵連隊甚しい」という報告しかできていなかった。損害増大報告受けたホーランド・スミスターナーに、グアム上陸作戦予備戦であった27歩兵師団106歩兵連隊サイパン投入要請してこれが認められ、第106歩兵連隊6月20日までにサイパン上陸した。この決定により第27歩兵師団全部隊がサイパン上陸することとなり、サイパン上陸したアメリカ軍戦力は2個海兵師団と1個陸軍歩兵師団合計3個師団となった

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日本軍総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 16:39 UTC 版)

グアムの戦い」の記事における「日本軍総攻撃」の解説

アデラップ方面歩兵第18連隊守る山地地域でも、変わらずパラソル台と本田台は健闘していたが駿河台日向台突破されており、アメリカ軍奥深くまで侵攻していた。日本軍のこの2日間での損害あまりに大きく、特に各部隊指揮官死傷率が高く70%の指揮官死傷していると推定され実際兵員損失以上に戦力の低下著しかった。また火砲90%が破壊されてる上に爆薬も底を尽いており、敵戦車対抗する手段なくなりつつあった。 以上の状況踏まえて下記の2案が提議された。 1、師団全力マンガン山に集結しアデラップ岬に向かって突撃し玉砕覚悟最終決戦挑む。 2、グアム島北東部密林地帯撤退し持久戦を行う。 会議紛糾したが、結局持久戦をおこなってもアメリカ軍グアム島利用止めることはできず、また日本軍らしい最後飾ろうという意見傾き第31軍司令官小畑英良中将7月24日残存戦力による総攻撃決意した25日未明総攻撃命令し大本営決別電文打電したその間アメリカ軍激し攻撃続き日本軍集結しているマンガン山に向かって戦車伴った進撃をしてきたが、パラソル台でアメリカ軍痛撃与えてきた石井中隊対戦車肉弾攻撃や、残存野砲による直接照準平射撃で戦車数両を撃破した苦戦が続くグアム戦で連日に渡る勇戦敢闘続けた石井中隊に対して戦史叢書は「まさに国軍真価如実にしめした。」賞賛している。後に中隊長石井中尉には小畑軍司令官より感状授与されている。 日没と共に日本軍総攻撃開始された。マンガン山から出撃した日本軍アサン海岸向けてまっしぐら白兵突撃行った独立10連隊長や、序盤アメリカ軍痛撃与えた18連隊第3大隊の行岡大隊長率先し陣頭立って突撃突撃前面にあった海兵21連隊は、各所日本軍激し白兵突撃前線突破され、海兵21連隊第3大隊長指揮所を占領され機密漏れるのを恐れて暗号機土中埋めている。また日本軍物資集積所野戦病院にも突入し野戦病院では軍医コックまでが手伝って負傷兵連れて慌てて退却している。また、海兵第9連隊第2大隊7度にも渡って日本軍突撃受けて、950名の日本軍をたおしたが、戦力50%にまで落ち込んだ。 後の25海兵隊総司令となったロバート.E.クッシュマン(英語版)(当時中佐、後に大将)の大隊白兵突撃してくる日本軍相手に、激し戦闘繰り広げ600名の日本兵を斃したが、クッシュマンの大隊62名の戦死者179負傷者出した。クッシュマンはこの戦闘指揮海兵隊の最高勲章である海軍十字章受賞している。また、クッシュマンの次の26海兵隊総司令となったルイ·ヒュー·ウィルソンジュニア(英語版)(当時大尉 後に大将)も日本軍激し攻撃に5時間の間に3度負傷しながら、ライフル中隊巧みに指揮し10時間に渡り日本軍総攻撃から陣地守り切ってメダル・オブ・オナー受賞した。 以上の様に日本軍総攻撃アメリカ軍打撃与えたが、火砲少なく弾薬尽きた白兵戦突撃だけでは死傷者増大するばかりであり、独立10連隊長も行岡大隊長壮烈な戦死遂げ25日中には総攻撃勢い減衰し、26日日中にほぼ終息した。総攻撃には、グアムから疎開遅れた一般邦人男子数十名も志願の上抜刀隊編成し軍と運命を共にしている。 21日から25日にかけて、オロテ半島第一飛行場海軍陸戦隊戦車9連隊第1中隊協力し死守してきた第38連隊第2大隊であったが、激し戦闘により、海軍部隊含めた残存兵力が2,500名まで減少していた。一方でアメリカ軍攻めあぐねていたオロテ半島対し予備兵であった77歩兵師団主力までを戦場一気注ぎ込み、第1臨時海兵旅団主力全力半島最深部まで侵攻してきたため、奥城大隊長須磨(オロテ)地区海軍陸戦隊楠本司令は、軍主力呼応して総攻撃決意した第2大隊海軍陸戦隊は、25日夜より降り出した豪雨利用して夜襲をかけたが、アメリカ軍0時からのわずか2時間の間に26,000発の砲弾日本軍浴びせた一方日本軍武器弾薬尽き一部兵員熊手野球バットまで武器代わりに持って突撃した部隊アメリカ軍陣地突入するも、激しい集砲火奥城大隊長重傷負い自決し突撃部隊26日4時には壊滅した楠本司令残存部隊を率いて突撃敢行27日戦死したその後1941年日本軍占領されたオロテ半島の旧アメリカ軍海兵隊宿舎28日奪還29日には半島全体占領し同日レイモンド・スプルーアンス大将ホーランド・スミス中将アメリカ軍指揮官らが立ち合いの元で国旗掲揚式が行われた。アメリカ軍からすれば3年越しリベンジ果たした事となった。このオロテ半島を巡る攻防戦日本軍残存の2,500名のほとんどが戦死したが、アメリカ軍戦死行方不明153名、負傷者721名であった

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日本軍総攻撃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 06:17 UTC 版)

沖縄戦」の記事における「日本軍総攻撃」の解説

32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀持久戦術により、アメリカ軍多大な損害与えて進撃遅滞させてきたが、損害増大し陣地逐次圧迫され第32軍首脳部は今後戦況推移憂慮していた。4月29日長勇参謀長は八原ら参謀集め今後戦況見通しと軍の攻勢」について幕僚会議開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力蝋燭のごとく消磨し、軍の運命尽きることは明白、攻撃戦力保有している時期攻勢を採り、運命打開をすべき」と反転攻勢主張した。 八原は「攻勢をとれば全滅運命必至という状況冷静に受け入れ今まで戦略持久堅持すべきである」「防御陣地捨てて攻勢転じて圧倒的火力優勢なアメリカ軍撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数短小となる」「絶対優勢な米軍攻勢をとれば、損害の比は日本軍アメリカ軍の5倍となる」などを強く主張し反対したが、他の参謀らは長を熱烈に支持した日本軍長年伝統攻勢至上主義であり、それを常々疑問思っていた八原は、その伝統に捉われ攻勢転じようとする司令部内の空気を「司令部内に、再び狂風吹き始めたり警戒要す」とメモ書き記している。決定不服とした八原は「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部良好中級将校凡庸高級指揮官愚劣評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位占め人々まで、多く幕僚指揮官が、用兵作戦本質的知識能力欠けているのではないかと疑う」と記録している。 司令官牛島も、かねてから中央からの督戦気に病んでおり、長らの攻勢意見取り上げ同日総攻撃決定した5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命賭けて攻勢決したのだから、よろしく気分一新し、全軍気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例叱責行っている。八原はこの牛島叱責長の策動よるもの察し「これは、無意味な自殺的攻撃過ぎぬものと思います。しかし、既に閣下がご決心になったことでありますので、私としては、その職責鑑み全力尽くしております」と答えたが、牛島は八原の暴言に怒ることもなく「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後に軍刀振って突撃する考えである」と言葉静かに諭した作戦会議決定により5月3日夜に日本軍反転攻勢転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊により5,000発のかつてない規模アメリカ軍砲撃浴びせ砲撃の支援下で第24師団戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復図った船舶工兵2326連隊残存の上陸用舟艇大発動艇乗船し海上迂回してアメリカ軍背後逆上陸を試みこととした。逆上作戦には、1945年4月27日ハッチンス駆逐艦)(英語版)を大破放棄戦果挙げてからは、組織的な戦闘力喪失していた海上挺進第26-29戦隊が、特攻艇のマルレ残存艇使用して参加 の他に、沖縄漁民操縦するサバニ多数投入することとした。第5航空艦隊司令宇垣纏総攻撃援護のため、九州および台湾陸海軍航空戦力投入することを決定同日菊水五号作戦」と「第六航空総攻撃」を発令し大量特攻機出撃させた。 日本軍猛烈な砲撃アメリカ軍一時混乱陥ったが、あらゆる火砲火器集中して総攻撃してきた日本軍攻撃し日本兵は得意の白兵戦持ち込む事もできずバタバタと斃された。アメリカ軍重砲隊は日本軍退路にも激しく砲撃し日本軍退路断たれ損害増大したまた、日本戦車第27連隊九七式中戦車新砲塔型を含む)と九五式軽戦車のほとんどが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅した船舶工兵2326連隊海上挺進第26-29戦隊などの逆上部隊は、東西2手に分れ逆上陸を目指すこととなったが、主力西海岸上陸部隊700名)が那覇桟橋出港し牧港嘉手納に向け海上進行中に、陸上アメリカ軍第1海兵師団の第1海兵連隊発見された。第1海兵連隊海上向けて迫撃砲での砲撃含め激しく攻撃してきたうえに、水陸両用戦車LVT(A)-1が海上まで進んできて、車載37㎜砲で兵士ごと船舶撃沈していった生き延びた日本兵やむなく海岸から上陸したが、そこでも第1海兵連隊激し追撃により、合計443名の戦死者出し壊滅した。それでも、第1海兵師団背後日本軍上陸する孤立してしまうため、師団混乱し日本軍空挺部隊降下してくるという偽情報振り回され屈強な海兵隊兵士らも、夜間上空飛来する航空機の音に怯えながら、一睡もすることなく朝を迎えることとなった東海岸上陸部隊200名)は70隻のサバニ分乗し上陸兵を20隻のマルレ援護する編成であったが、与那原出発して中城湾航行中に、パトロール中の駆潜艇発見され攻撃受けて次々と撃沈された。その後第7師団所属水陸両用戦車LVT(A)-1も攻撃加わりサバニ部隊壊滅した生き残ったマルレは、中城湾停泊していたカリーナ攻撃輸送艦) (英語版)に突入し大破させた。これが日本軍特攻艇による最後戦果となったが、西海岸上陸部隊106名の兵士多数沖縄漁民戦死者出して壊滅し東西海岸への逆上作戦失敗終わった。 翌5月4日日本軍攻撃続き日本軍砲撃は、アメリカ軍太平洋戦線受けたとがない規模となる13,000発にもなったが、アメリカ軍日本軍発砲地点観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊した記録しており、大きな損害被った日本軍砲兵隊は、この後はまた隠匿した陣地引き籠りざるを得なくなり支援砲撃大幅に弱体化した昨夜引き続き日本軍アメリカ軍圧倒的な火力前に膨大な死傷者出しながらも、一部部隊アメリカ軍前線突破成功している。中でも前田高地活躍していた第24師団歩兵第32連隊第1大隊棚原高地奪還したこのためアメリカ第7師団17連隊補給路を断たれることとなり、日本軍総攻撃での数少ない成果となったこれまで日本軍戦死者は6,237名にも及び、ほとんど無傷予備兵であった第24師団大打撃をうけ、隷下歩兵第32連隊などは戦力30%以下となるなど大損害を被った一方でアメリカ軍損害は、陸軍師団714人、第1海兵師団352人の合計1,067人の死傷者であったが、これは攻勢反対意見述べた際の八原の予想通り損害比率であった5月4日夜に攻撃失敗は明らかで、長をはじめ、攻勢主張していた軍首脳部うなだれて一言発することができない状況だった。翌5日に、全軍玉砕覚悟し総攻撃敢行するか否か牛島決断せまられたが、八原はこの時の司令部状況を「地上戦闘に対す認識が浅い。中国軍相手太平洋戦争初期戦闘経験捉われ比較絶する強大な火力部隊対す心構え乏しく不十分だ。死を賛美しすぎ、死が一切美しく解決する思いこんでいる」と厳しく評価している。5日牛島は長を介さず直に八原を呼ぶと、目に涙を浮かべながら謝罪し今後は八原の助言重んじる告げている。牛島その際に「今後一切貴官任せる。思う存分やってくれ」と軍の指揮を八原の方針一任するとし、これまで対立してきた長もこの日以降は「八原、俺の切腹時期はまだ来ないか?」と冗談も本気ともつかぬ口癖で、八原の方針に従うようになった。八原は牛島一任を受けると直ち総攻撃中止の軍命令発し棚原高地確保していた第32連隊第1大隊撤退した総攻撃の失敗により、沖縄戦二週間以上短縮されたと分析されているが、この結果からアメリカ陸軍は、この総攻撃提案者の長に対し5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き不適切実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳し評価をしている。 一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応戦果挙げており、駆逐艦モリソン「ルース」中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194撃沈され、護衛空母「サンガモン」軽巡洋艦バーミングハム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者出したこの内バーミンガム」への特攻瞬間は、地上戦っていた第1海兵師団からも目撃できたという。 第32軍の総攻撃失敗から数日後5月8日ナチスドイツ無条件降伏したが、沖縄アメリカ兵たちは誰も大し関心を払わなかった。ナチスドイツ降伏しようが、総攻撃失敗大損害を被ろうが日本軍今まで様に沖縄でも全滅するまで戦うだろう確信しており、元海兵隊員で戦後生物学者となったユージーン・スレッジ当時ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えた回想している。海兵隊員らの予想通りこの後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、アメリカ軍損害増大していった。

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