日本軍総攻撃
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翌6月16日、アメリカ軍は輸送船35隻、LST40隻、上陸用舟艇多数で膨大な量の物資を揚陸し、戦力の充実を図り激しい攻撃を加えてきた。前日は終日に渡ってアギガン岬を死守し、何度もアメリカ軍を撃退した独立歩兵第316大隊であったが、第4海兵師団の攻撃に包囲されて壊滅しアギガン岬も占領された。また、第2海兵師団と第4海兵師団の占領地の中間にあるアフェトナ岬にも第2海兵師団が進撃、波止場に立て籠もった日本軍守備隊を艦砲射撃で痛めつけたうえで、アムトラックで進撃したものの、日本軍の砲撃により撃破されてしまった。攻めあぐねたアメリカ軍はさらにM4中戦車を投入して、午前11時55分にアフェトナ岬を占領した。これによって、1日たってからようやく第2海兵師団と第4海兵師団の連絡が取れ、確保した波止場によって物資の揚陸も円滑となったため、第2海兵師団の作戦将校は「事態は今や好転しつつある」と作戦経過を報告している。占領地が連結され、連携しての進撃が可能となった第2海兵師団と第4海兵師団、は徐々に前進していき、チャラン・カノア東側を防衛していた高射砲第6中隊は、高射砲を水平射撃してアメリカ軍戦車6両を撃破したが反撃で壊滅し、第23海兵連隊は昨晩失った製糖工場を奪還している。またヒナシス付近の同第2中隊もアメリカ軍の攻撃で壊滅し生存者50名はタポチョ山に撤退した。 同16日、アメリカ軍潜水艦「フライングフィッシュ」がサンベルナルジノ海峡を航行する、空母や戦艦からなる大艦隊を発見、また「シーホース」もレイテ湾沖で日本艦隊を発見しており、これを第一機動艦隊の出撃と判断したスプルーアンスは、6月18日に予定されていたグアムへの上陸作戦の無期限延期を決めて、第58任務部隊を第一機動艦隊の迎撃に向かわせることとした。スプルーアンスは旗艦の重巡洋艦「インディアナポリス」をターナーの旗艦「ロッキー・マウント」に接舷すると、ターナーを呼び出し輸送艦隊のサイパン沖合への一時的な退避を命じた。ターナーは上陸部隊が苦戦しており、弾薬の補給の必要性などから一旦は拒絶したが、スプルーアンスは「日本艦隊がやってくるぞ」と危機感を煽って最終的には承諾させた。 沖合に退避する際に、輸送船上の兵力を少しでも減らすため、予備兵力であったアメリカ陸軍の第27歩兵師団の第165歩兵連隊と第105歩兵連隊を上陸させたので、結果的にサイパンのアメリカ軍陸上部隊は強化される事となった。第165歩兵連隊は6月17日未明から上陸準備を開始し、午前3時30分から上陸を開始したが、水際は既に海兵隊により掃討されており損害はなかった。そして、午前7時30分には第27歩兵師団の第105野砲大隊も上陸を終えて、上陸後2日間で死傷者2,200人という大損害を被っていた第4海兵師団の後衛として投入され、第4海兵師団の目標とされていたアスリート飛行場に向けて進撃を開始した。もう一方の第105歩兵連隊の上陸は遅れて、午前中いっぱいかかってしまったが、第105連隊の2個大隊は分割されて、それぞれ第4海兵師団と第165歩兵連隊の予備兵力に回されることとなった。第165歩兵連隊と第105歩兵連隊を上陸させたあと、身軽となったアメリカ軍の艦船が沖合に退避していく姿を見て、アメリカ軍が撤退していくと誤認した日本軍の士気は一時的に高まった。 6月16日夜に、前日より続けてきた戦力集結の目途がついた為、斎藤より守備隊の総力を挙げての逆襲が下令された。再度、戦車第9連隊の五島は戦車単独攻撃を主張したが、またも鈴木に押し切られて歩兵との連携攻撃となった。攻撃目標はオレアイに設置されたアメリカ軍の無線局とし、戦力は中地区右地区を守っていた歩兵第136連隊第1大隊と戦車第9連隊を主力とし、独立歩兵第315大隊、歩兵第18連隊第1大隊、と砲兵隊、海岸で壊滅した部隊の残存兵であった。攻撃開始時刻はアメリカ軍が夜襲対策として防御を固める夜半ではなく、夕方の17時としたが、結局準備に手間取り、攻撃開始は深夜の6月17日2時30分が攻撃開始時間となった。日本軍の戦車の運用法は薄暮か黎明攻撃を中心とし、その猛訓練を積んできており、歩兵のように夜襲で寝込みを襲うといった斬り込み思想での訓練は殆どやっておらず、連係攻撃に未熟な第43師団の歩兵を連れての夜襲攻撃は戦車第9連隊に手枷足枷をつけているようなものであった。 上陸部隊撃破に自信を深めていた日本軍は、夜襲であるにも関わらず、総攻撃の意図を全く隠そうとせずに、各部隊は堂々と行進し、大声で愛国的な訓示を行い、多くの旗を打ち振っていたが、その様子は沖合に停泊していたアメリカ軍艦船からも確認できたという。 戦車第9連隊の30両の戦車にはそれぞれ歩兵数名が乗り込んでおり、いわゆるタンクデサントによる突撃となった。本来であれば戦車部隊は横隊で突撃するのが理想的であるが、地形的に2列縦隊での突撃を余儀なくされ、水平に砲撃すれば前の車輌に当たってしまうため、仕方なく空に向かって砲撃せざるを得なかった。一方アメリカ軍はM4中戦車を多数揚陸済みであり、他にも大量のM3 37mm砲と新兵器バズーカと対戦車砲を搭載したM3 75mm対戦車自走砲も待ち構えていた。アメリカ軍海兵隊にとっては、開戦以来、初めて受ける大規模な敵戦車からの攻撃で大きな混乱がおこってもおかしくなかったが、夜間で日本軍戦車隊の全体像が判らなかったので、かえって視界内の限られた戦車への対策に集中できて、海兵隊兵士に大きな混乱は生じなかった。一方で、攻撃側の戦車第9連隊は不慣れな縦隊突撃を行ったので、たちまち指揮系統が混乱してしまい、まとまった作戦行動はとれず、4、5輛の戦車が一団としてまとまって突進し、なかには沼地にはまって動けなくなる戦車もあった。 それでも、戦車第9連隊の戦車は、第2海兵師団第6海兵連隊の陣地に突入したが、そこで待ち受けていたのが海兵隊員が装備していた新兵器のバズーカであった。装甲の薄い日本軍戦車にバズーカが命中すると、ほぼ同時に装甲を貫通して内部で炸裂し擱座する戦車が続出した。第6海兵連隊の海兵隊員は、初めての多数の戦車による攻撃に全く怯むことはなく、陣地に立ち止まって激しく抵抗した。なかでも、ロバート・S・リード一等兵は、バズーカ4発を日本軍戦車4輌に命中させたのち、ロケット弾が尽きると日本軍戦車によじ登って、砲塔内に焼夷手榴弾を投げ込んでその戦車を擱座させるという活躍で海軍十字章を授与されている。チャールズ・D・メリットとハーバート・J・ホッジスの両二等兵はバズーカを抱えて蛸壺壕を飛び出すと、1発発射しては走って位置を移動してまた発射するということを繰り返して7輌の日本軍戦車に命中させたと主張した。 M3 37mm砲も威力を発揮して次々と日本軍戦車は撃破されていった。空には無数の照明弾が打ち上げられ白昼のような明るさの中で、M4中戦車も戦場に到着して、97式中戦車との戦車戦が行われたが、砲撃の練度は日本軍が勝り次々と命中弾を与えるが、全てM4中戦車の厚い装甲にはね返されるのに対し、M4中戦車の砲弾は易々と97式中戦車や95式軽戦車を撃破していった。戦車の上に乗っていた歩兵も激しい射撃で死傷者が続出して殆どが振り落された。あらゆる火器を浴びせられる中で日本軍戦車は絶望的な戦いを続けており、下田四郎が搭乗していた95式軽戦車は、第3中隊長の西館法夫中尉が搭乗する97式中戦車改と併走していたが、中隊長車にはバズーカが命中し爆発炎上した。中隊長車からは西館以下誰も脱出できず、全員が戦死したものと思われたが、脇目もふらずにさらに突進したところ、キャタピラにバズーカが命中し、走行不能となってしまった。戦車長の中尾曹長の指示で3名の戦車兵は戦車から脱出、車載機銃を取り外して近くの窪地に潜むこととした。目の前では激しい戦闘が続いており、数十m先ではバズ-カが命中して撃破された97式中戦車の中から一人の戦車兵が飛び出すと、軍刀を振りかざしながら敵陣に突撃していった。そのような光景を見ていたたまれなくなった下田は、自分も機銃を抱いて突撃しようと身構えたが、戦車長の中尾が「死に急ぐな、戦闘はこれからだぞ。この場は俺にまかせろ」といって強く制止した。 なおも突進し、あと一歩でアメリカ軍に砲兵陣地まで達するところまで達した日本軍戦車を足止めしたのは、M101 105mm榴弾砲の砲撃と艦砲射撃であった。最後の日本軍戦車は朝7:00に海岸近くまで達して、海上の海軍艦艇から目視することができたので、20発の艦砲射撃が浴びせられた。榴弾砲や75mm対戦車砲が、日本軍戦車撃破にあまり活躍できなかったのは、総攻撃に伴って行われた日本軍の支援砲撃が非常に効果的であったためで、日本軍の観測兵はアメリカ軍の砲兵陣地を24時間に渡って詳細に観察し、その位置関係を図面にしていたので、極めて正確な砲撃ができた。日本軍の砲撃によりM101 105mm榴弾砲5門と75mm対戦車砲3門が撃破されて、海兵隊の砲兵に多数の死傷者が生じて砲撃能力が低下していた。夜が明けて戦場でくすぶる日本軍戦車の中には、まだ戦車兵が生存しているのか砲塔を回転させている戦車もあったが、M3 75mm対戦車自走砲の砲撃によりトドメが刺された。この戦車第9連隊の突撃でアメリカ軍は97名の海兵隊員が死傷した。 戦闘が開始されて2時間経過した朝7時には、連隊長車で砲塔に白い点線で鉢巻きの塗装がしてある97式中戦車改「あそ号」も、かえってその白い点線が目印となりアメリカ軍に集中攻撃された。勇敢な海兵隊員が戦車砲下部の操行器に手榴弾を投擲し、転輪が吹き飛び走行不能となって撃破されている。「あそ号」を含めた29輛の戦車第9連隊の戦車が戦場の至る所で燻っており、唯一、仁科信綱軍曹が車長の1輛のみが生還した。戦場をあとにし、中隊本部に後退する下田らは仁科の戦車と合流したが、その際に仁科より「友軍は全滅したぞ、連隊長殿の戦車も擱座した。おそらく戦死されただろう」と連隊長の五島の戦死を聞かされている。撃破された戦車からからくも脱出した下田ら戦車兵は、どうにか2日かけてタポチョ山東側の連隊本部にたどり着いたが、撃破された29輛の110名の戦車兵のうち、生還できたのはわずか30名ほどで、連隊長以下3/4が戦死していた。一方で、日本軍最大の戦車攻撃を撃退したアメリカ軍海兵隊の兵士らは、明るくなって戦場に多数残されていた日本軍戦車の残骸を見て非常に志気が高まり、戦車の近くで動けなくなった日本兵の負傷者を探しては殺害して回っている。アメリカ軍はサイパンの日本軍戦車数を150輌から200輌と実際よりは多めに見積もって、それに対抗するため大量のバズーカや対戦車砲を持ち込んでおり、その過大見積が功を奏することとなった。第2海兵師団長の「テリブル(恐怖の)トミー」ことトーマス・E・ワトソン(英語版)少将はこの戦闘の後、「我々はこれ以上、サイパンでは日本軍戦車を恐れる必要はないと思うよ。たくさんやっつけたからね」と述べている。 戦車第9連隊に随伴した歩兵各隊についても、五島の懸念通り戦車と連携することができず、海兵隊の重機関銃4個小隊の銃撃によって戦車と切り離されてしまい個別撃破されることとなった。歩兵各隊は昨日より格段に強化されたアメリカ軍陣地の前に死傷者続出で、歩兵第136連隊は1個大隊程度の兵力にまで落ち込んで退却、歩兵第18連連隊第1大隊は久保大隊長以下殆どが戦死し、海軍唐島挺身隊も全滅した。 連夜に渡った水際での逆襲はいずれも撃破されて、水際撃滅作戦は失敗に終わったが、アメリカ軍は上陸3日間で5,000名以上の予想外の戦死傷者を出していた。ホーランド・スミスの指揮所には各大隊の死傷者数が記入された表が掲示されていたが、情報が錯綜している中で数字は不完全なもので、第2海兵師団第8海兵連隊の第2、第3大隊の死傷率は40%と詳細に報告されている大隊もあれば、上陸時と唐島挺身隊の夜襲で大損害を被っていた第4海兵師団第23海兵連隊については「被害甚大、特に第23海兵連隊は甚しい」という報告しかできていなかった。損害増大の報告を受けたホーランド・スミスはターナーに、グアム上陸作戦の予備戦力であった第27歩兵師団第106歩兵連隊のサイパン投入を要請してこれが認められ、第106歩兵連隊は6月20日までにサイパンに上陸した。この決定により第27歩兵師団全部隊がサイパンに上陸することとなり、サイパンに上陸したアメリカ軍の戦力は2個海兵師団と1個陸軍歩兵師団の合計3個師団となった。
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日本軍総攻撃
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アデラップ方面の歩兵第18連隊守る山地地域でも、相変わらずパラソル台と本田台は健闘していたが駿河台と日向台は突破されており、アメリカ軍は奥深くまで侵攻していた。日本軍のこの2日間での損害があまりに大きく、特に各部隊の指揮官の死傷率が高く70%の指揮官が死傷していると推定され、実際の兵員の損失以上に戦力の低下が著しかった。また火砲も90%が破壊されてる上に爆薬も底を尽いており、敵戦車に対抗する手段もなくなりつつあった。 以上の状況を踏まえて下記の2案が提議された。 1、師団の全力をマンガン山に集結しアデラップ岬に向かって突撃し玉砕覚悟の最終決戦を挑む。 2、グアム島の北東部の密林地帯に撤退し、持久戦を行う。 会議は紛糾したが、結局持久戦をおこなってもアメリカ軍のグアム島利用を止めることはできず、また日本軍らしい最後を飾ろうという意見に傾き、第31軍司令官小畑英良中将は7月24日に残存戦力による総攻撃を決意した。25日未明の総攻撃を命令し、大本営に決別の電文を打電した。 その間もアメリカ軍の激しい攻撃は続き、日本軍が集結しているマンガン山に向かって戦車を伴った進撃をしてきたが、パラソル台でアメリカ軍に痛撃を与えてきた石井中隊の対戦車肉弾攻撃や、残存野砲による直接照準の水平射撃で戦車数両を撃破した。苦戦が続くグアム戦で連日に渡る勇戦敢闘を続けた石井中隊に対して、戦史叢書は「まさに国軍の真価を如実にしめした。」賞賛している。後に中隊長の石井中尉には小畑軍司令官より感状が授与されている。 日没と共に日本軍の総攻撃が開始された。マンガン山から出撃した日本軍はアサン海岸に向けてまっしぐらに白兵突撃を行った。独立第10連隊長や、序盤でアメリカ軍に痛撃を与えた第18連隊第3大隊の行岡大隊長も率先し陣頭に立って突撃、突撃の前面にあった海兵第21連隊は、各所で日本軍の激しい白兵突撃に前線を突破され、海兵第21連隊第3大隊長は指揮所を占領され機密が漏れるのを恐れて、暗号機を土中に埋めている。また日本軍は物資集積所や野戦病院にも突入し、野戦病院では軍医やコックまでが手伝って負傷兵を連れて慌てて退却している。また、海兵第9連隊第2大隊は7度にも渡って日本軍の突撃を受けて、950名の日本軍をたおしたが、戦力が50%にまで落ち込んだ。 後の25代海兵隊総司令となったロバート.E.クッシュマン(英語版)(当時中佐、後に大将)の大隊は白兵突撃してくる日本軍相手に、激しい戦闘を繰り広げ600名の日本兵を斃したが、クッシュマンの大隊も62名の戦死者と179名負傷者を出した。クッシュマンはこの戦闘の指揮で海兵隊の最高勲章である海軍十字章を受賞している。また、クッシュマンの次の26代海兵隊総司令となったルイ·ヒュー·ウィルソンジュニア(英語版)(当時大尉 後に大将)も日本軍の激しい攻撃に5時間の間に3度も負傷しながら、ライフル中隊を巧みに指揮し10時間に渡り日本軍の総攻撃から陣地を守り切ってメダル・オブ・オナーを受賞した。 以上の様に日本軍の総攻撃はアメリカ軍に打撃は与えたが、火砲も少なく弾薬も尽きた白兵戦突撃だけでは死傷者が増大するばかりであり、独立第10連隊長も行岡大隊長も壮烈な戦死を遂げ、25日中には総攻撃の勢いは減衰し、26日日中にほぼ終息した。総攻撃には、グアムから疎開が遅れた一般邦人男子数十名も志願の上で抜刀隊を編成し軍と運命を共にしている。 21日から25日にかけて、オロテ半島と第一飛行場を海軍陸戦隊や戦車9連隊第1中隊と協力し死守してきた第38連隊第2大隊であったが、激しい戦闘により、海軍諸部隊も含めた残存兵力が2,500名まで減少していた。一方で、アメリカ軍は攻めあぐねていたオロテ半島に対し、予備兵力であった第77歩兵師団の主力までを戦場に一気に注ぎ込み、第1臨時海兵旅団を主力に全力で半島最深部まで侵攻してきたため、奥城大隊長と須磨(オロテ)地区海軍陸戦隊楠本司令は、軍主力に呼応しての総攻撃を決意した。第2大隊と海軍陸戦隊は、25日夜より降り出した豪雨を利用して夜襲をかけたが、アメリカ軍は0時からのわずか2時間の間に26,000発の砲弾を日本軍に浴びせた。一方日本軍は武器弾薬も尽き、一部の兵員は熊手や杖や野球バットまで武器代わりに持って突撃した。部隊はアメリカ軍陣地に突入するも、激しい集中砲火に奥城大隊長は重傷を負い自決し、突撃部隊も26日4時には壊滅した。楠本司令も残存部隊を率いて突撃を敢行し27日に戦死した。 その後、1941年に日本軍に占領されたオロテ半島の旧アメリカ軍海兵隊宿舎を28日に奪還、29日には半島全体を占領し同日にレイモンド・スプルーアンス大将やホーランド・スミス中将らアメリカ軍指揮官らが立ち合いの元で国旗掲揚式が行われた。アメリカ軍からすれば3年越しのリベンジを果たした事となった。このオロテ半島を巡る攻防戦で日本軍は残存の2,500名のほとんどが戦死したが、アメリカ軍は戦死・行方不明153名、負傷者721名であった。
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日本軍総攻撃
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第32軍は夜襲失敗以降は、八原高級参謀の持久戦術により、アメリカ軍に多大な損害を与えて進撃を遅滞させてきたが、損害は増大し主陣地も逐次圧迫され、第32軍首脳部は今後の戦況の推移に憂慮していた。4月29日に長勇参謀長は八原ら参謀を集め「今後の戦況の見通しと軍の攻勢」について幕僚会議を開いた。その席で長は「現状をもって推移すれば、軍の戦力は蝋燭のごとく消磨し、軍の運命が尽きることは明白、攻撃戦力を保有している時期に攻勢を採り、運命の打開をすべき」と反転攻勢を主張した。 八原は「攻勢をとれば全滅の運命は必至という状況を冷静に受け入れ、今までの戦略持久を堅持すべきである」「防御陣地を捨てて攻勢に転じても圧倒的火力優勢なアメリカ軍を撃退することは不可能であり、失敗すれば戦略持久すら不可能となり、本土攻撃までの持久日数が短小となる」「絶対優勢な米軍に攻勢をとれば、損害の比は日本軍がアメリカ軍の5倍となる」などを強く主張し反対したが、他の参謀らは長を熱烈に支持した。日本軍の長年の伝統は攻勢至上主義であり、それを常々疑問に思っていた八原は、その伝統に捉われ攻勢に転じようとする司令部内の空気を「司令部内に、再び狂風吹き始めたり。警戒を要す」とメモに書き記している。決定を不服とした八原は「米軍は、日本軍のことを、兵は優秀、下級幹部は良好、中級将校は凡庸、高級指揮官は愚劣と評しているが、上は大本営より下は第一線軍の重要な地位を占める人々まで、多くの幕僚や指揮官が、用兵作戦の本質的知識と能力に欠けているのではないかと疑う」と記録している。 司令官の牛島も、かねてからの中央からの督戦を気に病んでおり、長らの攻勢の意見を取り上げ同日に総攻撃を決定した。5月1日には最後まで反対していた八原を呼び「既に軍は全運命を賭けて攻勢に決したのだから、よろしく気分一新し、全軍の気勢を殺がぬよう注意せよ」と温厚な牛島にしては異例の叱責を行っている。八原はこの牛島の叱責は長の策動によるものと察し「これは、無意味な自殺的攻撃に過ぎぬものと思います。しかし、既に閣下がご決心になったことでありますので、私としては、その職責に鑑み、全力を尽くしております」と答えたが、牛島は八原の暴言に怒ることもなく「もちろん玉砕攻撃である。吾輩も、最後には軍刀を振って突撃する考えである」と言葉静かに諭した。 作戦会議決定により5月3日夜に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊により5,000発のかつてない規模でアメリカ軍に砲撃を浴びせ、砲撃の支援下で第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊が残存の上陸用舟艇、大発動艇に乗船し海上を迂回してアメリカ軍背後に逆上陸を試みることとした。逆上陸作戦には、1945年4月27日にハッチンス(駆逐艦)(英語版)を大破放棄の戦果を挙げてからは、組織的な戦闘力を喪失していた海上挺進第26-29戦隊が、特攻艇のマルレの残存艇を使用して参加 の他に、沖縄の漁民が操縦するサバニ多数も投入することとした。第5航空艦隊司令宇垣纏は総攻撃援護のため、九州および台湾の陸海軍全航空戦力を投入することを決定、同日「菊水五号作戦」と「第六次航空総攻撃」を発令し、大量の特攻機を出撃させた。 日本軍の猛烈な砲撃にアメリカ軍は一時混乱に陥ったが、あらゆる火砲や火器を集中して総攻撃してきた日本軍を攻撃し、日本兵は得意の白兵戦に持ち込む事もできずバタバタと斃された。アメリカ軍の重砲隊は日本軍の退路にも激しく砲撃し、日本軍は退路を断たれて損害が増大した。また、日本の戦車第27連隊は九七式中戦車(新砲塔型を含む)と九五式軽戦車のほとんどが撃破され、残存戦車6両となり連隊はほぼ壊滅した。 船舶工兵第23、26連隊、海上挺進第26-29戦隊などの逆上陸部隊は、東西2手に分れ逆上陸を目指すこととなったが、主力の西海岸上陸部隊(700名)が那覇桟橋を出港し、牧港と嘉手納に向け海上を進行中に、陸上のアメリカ軍の第1海兵師団の第1海兵連隊に発見された。第1海兵連隊は海上に向けて迫撃砲での砲撃を含め激しく攻撃してきたうえに、水陸両用戦車LVT(A)-1が海上まで進んできて、車載37㎜砲で兵士ごと船舶を撃沈していった。生き延びた日本兵はやむなく海岸から上陸したが、そこでも第1海兵連隊の激しい追撃により、合計443名の戦死者を出し壊滅した。それでも、第1海兵師団は背後に日本軍が上陸すると孤立してしまうため、師団は混乱し、日本軍の空挺部隊が降下してくるという偽情報に振り回され、屈強な海兵隊兵士らも、夜間に上空に飛来する航空機の音に怯えながら、一睡もすることなく朝を迎えることとなった。東海岸上陸部隊(200名)は70隻のサバニに分乗した上陸兵を20隻のマルレが援護する編成であったが、与那原を出発して中城湾を航行中に、パトロール中の駆潜艇に発見され、攻撃を受けて次々と撃沈された。その後に第7師団所属の水陸両用戦車LVT(A)-1も攻撃に加わり、サバニ部隊は壊滅した。生き残ったマルレは、中城湾に停泊していたカリーナ(攻撃輸送艦) (英語版)に突入し大破させた。これが日本軍の特攻艇による最後の戦果となったが、西海岸上陸部隊も106名の兵士と多数の沖縄漁民の戦死者を出して壊滅し、東西海岸への逆上陸作戦は失敗に終わった。 翌5月4日も日本軍の攻撃は続き、日本軍の砲撃は、アメリカ軍が太平洋戦線で受けたことがない規模となる13,000発にもなったが、アメリカ軍は日本軍の発砲地点を観測機により発見して効果的に反撃し、対砲兵戦により59門を破壊したと記録しており、大きな損害を被った日本軍の砲兵隊は、この後はまた隠匿した陣地に引き籠りざるを得なくなり、支援砲撃は大幅に弱体化した。昨夜に引き続き日本軍はアメリカ軍の圧倒的な火力の前に膨大な死傷者を出しながらも、一部の部隊はアメリカ軍の前線の突破に成功している。中でも前田高地で活躍していた第24師団歩兵第32連隊の第1大隊が棚原高地を奪還した。このため、アメリカ第7師団第17連隊は補給路を断たれることとなり、日本軍総攻撃での数少ない成果となった。これまでに日本軍の戦死者は6,237名にも及び、ほとんど無傷の予備兵力であった第24師団も大打撃をうけ、隷下の歩兵第32連隊などは戦力が30%以下となるなど大損害を被った。一方でアメリカ軍の損害は、陸軍師団で714人、第1海兵師団で352人の合計1,067人の死傷者であったが、これは攻勢反対意見を述べた際の八原の予想通りの損害比率であった。 5月4日夜には攻撃の失敗は明らかで、長をはじめ、攻勢を主張していた軍首脳部はうなだれて一言も発することができない状況だった。翌5日に、全軍玉砕覚悟し総攻撃を敢行するか否か牛島の決断がせまられたが、八原はこの時の司令部の状況を「地上戦闘に対する認識が浅い。中国軍相手や太平洋戦争初期の戦闘経験に捉われ、比較を絶する強大な火力部隊に対する心構えが乏しく不十分だ。死を賛美しすぎ、死が一切を美しく解決すると思いこんでいる」と厳しく評価している。5日に牛島は長を介さず、直に八原を呼ぶと、目に涙を浮かべながら謝罪し、今後は八原の助言を重んじると告げている。牛島はその際に「今後は一切を貴官に任せる。思う存分やってくれ」と軍の指揮を八原の方針に一任するとし、これまで対立してきた長もこの日以降は「八原、俺の切腹の時期はまだ来ないか?」と冗談とも本気ともつかぬ口癖で、八原の方針に従うようになった。八原は牛島の一任を受けると直ちに総攻撃中止の軍命令を発し、棚原高地を確保していた第32連隊第1大隊も撤退した。 総攻撃の失敗により、沖縄戦は二週間以上短縮されたと分析されているが、この結果からアメリカ陸軍は、この総攻撃の提案者の長に対し「5月4日から5日にかけての日本軍の反撃は、長より八原の戦術の方が優れている事を示した。長が自信過剰になって思い付き、不適切に実行した攻撃は、途方もない大失態だった」と厳しい評価をしている。 一方で総攻撃への空からの援護であった特攻は、相応の戦果を挙げており、駆逐艦「モリソン」「ルース」、中型揚陸艦LSM(R)-190およびLSM(R)-194が撃沈され、護衛空母「サンガモン」軽巡洋艦「バーミングハム」が大破するなど17隻が撃沈破され682名の死傷者を出した。この内「バーミンガム」への特攻の瞬間は、地上で戦っていた第1海兵師団からも目撃できたという。 第32軍の総攻撃失敗から数日後の5月8日にナチスドイツが無条件降伏したが、沖縄のアメリカ兵たちは誰も大して関心を払わなかった。ナチスドイツが降伏しようが、総攻撃失敗で大損害を被ろうが日本軍は今までの様に沖縄でも全滅するまで戦うだろうと確信しており、元海兵隊員で戦後に生物学者となったユージーン・スレッジは当時「ナチスドイツなど月より遠い話だ」と考えたと回想している。海兵隊員らの予想通り、この後日本軍は八原の作戦指揮の下、無謀な攻撃はせず、徹底した持久戦術をとった為、アメリカ軍の損害が増大していった。
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