日本軍武装解除
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
領事館が焼け落ちた後、生き残った日本兵は、守衛のため兵営に残っていた者、帰り着いた者をあわせて、およそ80人あまりだった。女性を含む民間人も13人ほどが兵営に逃れてきていて、ともにたてこもっていた。また、アムール河畔の第二陸軍病院分院に、分院長内田一等軍医以下8人、患者18人がいた。 香田日記によれば「数門の砲および中国砲艦より砲撃を受け、兵舎の破壊は凄惨をきわめた」ということで、大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。ところが3月17日夕刻、突然、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された。この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンが、山田旅団長と杉野領事に対し、「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった。 3月18日、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した。ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ、過酷な労役を課された。3月31日にニコラエフスクを脱出しアレクサンドロフスク・サハリンスキーに逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが今や一人も生残るものはないであろうと語っている。
※この「日本軍武装解除」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「日本軍武装解除」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。
- 日本軍武装解除のページへのリンク