日本軍時代
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「李鍾賛 (1916年生)」の記事における「日本軍時代」の解説
1916年3月、京城府にて李圭元(이규원)の息子として生まれる。李夏榮の孫にあたり、朝鮮貴族の子爵の家柄であったが、襲爵を辞退して話題の人となった。 京城師範学校付属初等学校を経て、1933年に京城中学校を卒業。同年4月、陸軍士官学校(49期)に入校。同期に蔡秉徳。予科2年に兵科で分けられるようになり、李は工兵科に決まった。同期の蔡秉徳は重砲兵科と2人とも技術兵科を志望したのは、先輩であった第26、27期生(洪思翊、李應俊、金錫源など)のほとんどが歩兵科であったため、将来我が国に軍隊が発足した場合、技術兵科出身者が多く不足するだろうと判断したためであった。1935年3月に予科を修了後、4月から9月まで愛知県豊橋にある第3師団工兵隊で隊付勤務。1937年6月、陸士49期工兵科卒業。当時、陸軍士官学校に学んで正規将校となった朝鮮人達の多くは日本名に改名したが、李鍾賛はしなかった。卒業後は見習士官として第3師団工兵隊に配属。 1937年8月21日、陸軍工兵少尉任官。支那事変が勃発すると上海戦線に派遣される。1938年3月30日、工兵中尉。1940年冬、中国から帰還。1941年3月、任大尉。1942年、第33回論功行賞で功五級旭六等の金鵄勲章を受章する。同年、陸軍砲工学校に在学。 船舶工兵に転科し、船舶部隊参謀として南方戦線を転戦した。1942年12月、独立工兵第4中隊に所属し、1943年7月から第17軍南海支隊所属の独立工兵第15連隊に服務した。所属部隊は東部ニューギニアに派遣され、オーエンスタンレー山脈を越えてポートモレスビー作戦などに投入された。1943年10月に戦況の悪化でニューギニア西部に撤退して以来、終戦まで南太平洋一帯を転々としていた。1943年12月1日、任少佐。1944年、独立工兵第15連隊長代理。アメリカ軍が上陸した場合を想定して奥地のリテー川上流に基地を建設する作戦を担当した甲機関の副隊長となる。任務を終えるとマノクワリ支隊司令部の閑職についた。情報主任としてやってきた上木利正大尉とは、いろいろ指導をし、互いに親しみ深く語り合った。終戦時は独立工兵第15連隊連隊附であった。 戦後、朝鮮出身者で朝部隊がつくられ、李がその部隊のリーダーとなった。1946年5月14日、朝部隊はマノクワリ港でアメリカ軍が出した引き揚げ船に乗船し、2日後にハルマヘラで降りた。この時、見送っていた上木に駆け寄り、固い握手を交わして「上木、韓国に帰ってもこれからが大変だよ。お互いに頑張ろう」と別れを告げた。1946年8月に帰国した。
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