日本軍時代とは? わかりやすく解説

日本軍時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/03 06:59 UTC 版)

李鍾賛 (1916年生)」の記事における「日本軍時代」の解説

1916年3月京城府にて李圭元(이규원)の息子として生まれる。李夏榮の孫にあたり朝鮮貴族の子爵家柄であったが、襲爵辞退して話題の人となった京城師範学校付属初等学校経て1933年京城中学校卒業同年4月陸軍士官学校49期)に入校同期蔡秉徳予科2年兵科分けられるようになり、工兵科決まった同期蔡秉徳重砲兵科2人とも技術兵科を志望したのは、先輩であった2627期生(洪思翊李應俊金錫源など)のほとんどが歩兵科であったため、将来我が国軍隊発足した場合技術兵出身者多く不足するだろうと判断したためであった1935年3月予科修了後、4月から9月まで愛知県豊橋にある第3師団工兵隊で隊付勤務1937年6月陸士49期工兵科卒業当時陸軍士官学校学んで正規将校となった朝鮮人達の多く日本名改名したが、李鍾賛はしなかった。卒業後は見習士官として第3師団工兵隊配属1937年8月21日陸軍工兵少尉任官支那事変勃発する上海戦線に派遣される1938年3月30日工兵中尉1940年冬、中国から帰還1941年3月、任大尉1942年第33回論功行賞功五級旭六等の金鵄勲章受章する同年陸軍砲工学校在学船舶工兵転科し、船舶部隊参謀として南方戦線転戦した1942年12月独立工兵第4中隊所属し1943年7月から第17軍南海支隊所属独立工兵15連隊服務した所属部隊東部ニューギニア派遣されオーエンスタンレー山脈越えてポートモレスビー作戦などに投入された。1943年10月戦況の悪化ニューギニア西部撤退して以来終戦まで南太平洋一帯転々としていた。1943年12月1日、任少佐1944年独立工兵15連隊長代理アメリカ軍上陸した場合想定して奥地のリテー川上流に基地建設する作戦担当した機関副隊長となる。任務終えるとマノクワリ支隊司令部閑職についた情報主任してやってきた上木利正大尉とは、いろいろ指導をし、互いに親しみ深く語り合った終戦時独立工兵15連隊連隊であった戦後朝鮮出身者で朝部隊つくられがその部隊リーダーとなった1946年5月14日、朝部隊マノクワリ港でアメリカ軍出した引き揚げ船乗船し2日後ハルマヘラ降りた。この時、見送っていた上木駆け寄り固い握手交わして上木韓国帰ってこれから大変だよ。お互いに頑張ろう」と別れ告げた1946年8月帰国した

※この「日本軍時代」の解説は、「李鍾賛 (1916年生)」の解説の一部です。
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