日本軍総反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:26 UTC 版)
5月3日、増援として独立歩兵第28大隊が連隊に加わった。同日夜には、翌日実施される日本軍総反撃の先駆けとして斬り込み隊を編成し、米軍陣地へ夜間浸透を試みた。攻撃準備をする兵隊は、栄養失調から夜盲症に罹っている者も多かった。22連隊は、軍旗を弁ヶ岳から幸地に移した。 5月4日、日本軍最後の総反撃が始まった。また、沖合では大規模な特攻作戦である菊水5号作戦が実施された。22連隊は「中突進隊」と呼称され、アメリカ軍陣地を中央突破し棚原北方の占領を命じられた。しかし、22連隊の前面にはすでに強力なアメリカ軍の野戦陣地が形成されており、八原博通大佐の指示を受け、損耗を避けるため、22連隊の第11中隊(中隊長 木口恒好大尉 士55期 愛媛県八幡浜出身)のみが出撃することとなった。 04:50、突撃準備射撃が開始され、軍砲兵の15cm榴弾砲、10cmカノン砲が100,000発以上発射された。 05:00、日本軍は前進を開始する。 07:00、第3中隊が幸地のホースシューリッジ南側で煙幕を作りアメリカ軍陣地の視界を奪うことに成功した。第11中隊は、機を得てアメリカ軍陣地に接近を図った。しかし、運悪く風向きが南西風から南東風となり、第11中隊はアメリカ軍の攻撃にさらされた。奇襲には失敗したが、すでに死を覚悟している木口恒好大尉の指揮のもと、壮烈な強襲をかけ獅子奮迅と戦闘した。アメリカ軍はM4中戦車をもって反撃し、第11中隊は全員戦死した。また、戦車27連隊の戦車もほとんどが撃破された。しかしながら、22連隊第1大隊後方潜伏班は、この状況下でも敵陣を約1000mも潜入したと戦史叢書に記述されている。アメリカ軍は、さらに戦車をもって幸地陣地に攻撃を加えたが、22連隊は総力を挙げてこの防戦に努めた。 5月5日、第3大隊は22連隊と合流したが、消耗しており、実質2個中隊の兵力であった。18:00、日本軍は攻撃失敗を悟り、作戦中止命令を下令した。
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