攻撃失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 03:55 UTC 版)
イラク軍は急速に体制を建て直し防御を強化した。もともと、イランの逆進攻に備えてシャッタルアラブ川から水を引き入れ水壕を複数本建設しており、堤防には鉄条網と地雷原を設置されていた。そこには厚さ2mの掩蔽壕で防護されたイラク軍がイラン軍を待ち構えており、戦車や火砲及び機関銃が効果的に射線界を確保できるように統制して配置され、いわゆるキルゾーンを形成していた。 7月15日2030時、このような態勢にあるイラク軍陣地に向けて革命防衛隊は突撃を開始した。攻撃開始前、12歳から80歳の男子で構成された雑多なパスダラン兵はホメイニーの名代であるウラマー達からバラカ(唯一神の祝福)を受け士気は高まっていた。やがて時間となり、国軍第4及び第92機甲師団の戦車を先頭に前進を開始、イラン軍の突撃号令と同時にイラク陣地から照明弾が撃ち上げられ一斉に射撃が始まった。次々と先頭が倒されるなか、パスダラン兵達は地雷や鉄条網をものともせず、狂信的な突撃を実施した。しかし、大規模な夜襲は得てして失敗しやすく、やがて指揮統制も取れなくなったところで、夜明けが近づいてきた。黎明とともにイラク軍のMi-24 ハインドによる航空攻撃も始まりイラン軍は壊乱した。 7月16日2100時、新着2個師団を投入、北側ザイード地区に攻撃実施するも企図を悟られ待ち伏せに合い失敗。 7月21日2030時、南側のシャラムチェ地区に迂回攻撃を実施するも失敗。 7月23日2200時、北側ザイード地区に迂回攻撃を実施するも失敗。 7月28日2100時、南側のシャラムチェ地区に迂回攻撃を実施するも失敗。 一連の攻撃の失敗により戦死27,000人、戦車300輌を喪失、以後暫くの間イラン軍は実数1個旅団程度の戦車しか運用できなくなった。8月5日、レザイー革命防衛隊総司令官は記者会見にて作戦目標の40%を達成したと述べた。実質的な敗北宣言であった。8月22日夜間には、シーア派バスラ住人に対して蜂起を促す心理戦を実施するも、効果は無かった。
※この「攻撃失敗」の解説は、「ラマダン作戦」の解説の一部です。
「攻撃失敗」を含む「ラマダン作戦」の記事については、「ラマダン作戦」の概要を参照ください。
- 攻撃失敗のページへのリンク