高級指揮官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 17:02 UTC 版)
「カスバート・コリングウッド」の記事における「高級指揮官」の解説
コリングウッドはもう一隻小型フリゲートの艦長となった後、64門戦列艦サンプソンに配備される。1783年以降は西インドで44門フリゲート・メディエーターの指揮を執り、数年間ネルソンらと共にアメリカ船舶の阻止を行った。 1786年にコリングウッドはイギリスへと帰国し、1791年サラ・ブラケットと結婚した。サラはかつて上官だったロバート・ロダムの孫である。1793年には海峡艦隊長官ジョージ・ボウヤー少将の旗艦プリンス(98門)の艦長になる。 コリングウッドは98門艦バーフラーの艦長として栄光の6月1日海戦に、エクセレントの艦長としてサン・ビセンテ岬の海戦に参加し、指揮官としての評判をあげた。カディスの封鎖を行った後、彼は修理のため数週間ポーツマスに戻る。1799年2月14日にコリングウッドは白色艦隊少将に任ぜられ、74門艦トライアンフに将旗を掲げた。1801年1月1日には赤色艦隊少将となる。提督となったコリングウッドは当初海峡艦隊に着任したが、やがてフランスとスペインの主力が存在する地中海へと転属になった。コリングウッドは活発に港湾封鎖任務をこなし、アミアンの和約が結ばれてフランス革命戦争が終結するまで帰国することはなかった。 短期間の休戦期間を経て1803年4月にナポレオン戦争が始まると、コリングウッドは再び前線へと旅立ち、死ぬまで戻ることはなかった。まずコリングウッドはブレスト沖でフランス艦隊の封鎖にあたる。1804年4月23日には青色艦隊中将に昇進した。 ナポレオン・ボナパルトは戦争が再開するとすぐにイギリス上陸作戦を準備しはじめていた。この計画は全ヨーロッパの運命を決める重大なものであったが、1805年に実行に移された。コリングウッドの戦隊にはトゥーロン港を脱出したフランス艦隊を追尾する任務が与えられる。最初西インドへと向かったフランス・スペイン連合艦隊はカディスへと帰還する途中、コリングウッドのたった3隻の小戦隊と遭遇するが、彼は16隻の戦列艦による追跡を振り切った後、敵艦隊がまだ半分も入港していないうちにカディスの封鎖を再開した。コリングウッドは偽の信号を発することでイギリス艦隊の規模を誤認させたのである。その後彼の戦隊はネルソンの地中海艦隊と合同し、仏西艦隊に決戦を挑むことになる。
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