奥宮正武の評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 16:58 UTC 版)
奥宮正武(海兵58期、太平洋戦争時、第二航空戦隊参謀など)は「(海外の著名人が誤った評価をする事について)田中少将の件がその一例である。太平洋戦争に参加した日本軍の高級指揮官について論評する場合には、他人の所見を引用するだけではなく、自らの努力で、できる限り事実関係を詳細に調査したのち、そうすることが望ましい」と評している。 1942年11月30日のルンガ沖夜戦の当夜、奥宮は、第二航空戦隊(司令官:角田覚治中将)航空参謀として、戦闘海面からほど近い海域を行動中の旗艦「隼鷹」で刻々と戦闘速報に接していた。奥宮は、ルンガ沖夜戦の大戦果は、田中が避退した後に、第1輸送隊(駆逐艦4隻)を巧みに指揮し、あえて低速で行動した上で敵艦隊を雷撃した第15駆逐隊司令・佐藤寅治郎大佐(海兵43期、1943年2月12日付で軽巡「神通」艦長、同年7月12日のコロンバンガラ島沖海戦で沈没した「神通」と運命を共にした)の武功が大と判断しており、アメリカ側が田中を高く評価するのは、単に田中が「ルンガ沖夜戦の時の日本側部隊の指揮官」だったからではないか、と疑問を呈している。奥宮は、1942年当時に、田中を二水戦司令官から解任した海軍当局の処置を妥当と感じたと述べ、ルンガ沖夜戦に先立つトラック泊地での作戦会議で田中が極めて消極的な発言をしていたことを証言している。
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