奥宮境内地の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:13 UTC 版)
「富士山本宮浅間大社」の記事における「奥宮境内地の経緯」の解説
江戸時代には、徳川家康による庇護の下で、本殿等の造営や内院散銭取得における優先権を得たことを基に、浅間大社は山頂部の管理・支配を行うようになっていた。安永8年(1779年)には幕府による裁許により正式に八合目以上の支配権が認められ、現在に至る。『駿河国新風土記』(江戸時代の地誌)の「富士山 上」の項には「八合目より上は富士郡にて、大宮浅間大宮司別当の所置する所なり、其詳なることは安永八己亥年12月5日下さるる所の公裁の文書に見えたり」とある。 この浅間大社に寄進されていた土地は、一時国有化された時期がある。国有財産法における「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」により、全国各地の寺社の土地は無償で国から返還された。富士山を神体山とする浅間大社は、長きに渡りその寄進されていた土地を管理していたため、他の寺社のように同法が適用されるはずであったが、特別な山ということもあり例外として適用されなかった。本来法律通りであれば神社側の土地として処理されるはずであったが、49,952坪のみしか譲渡されなかったのである。それに対し浅間大社側は、訴願を申し立てた。 そして江戸幕府が浅間社に寄進したことを示す古文書といった決定的な証拠により、これらの土地が浅間社の境内地であることが裁判という形で改めて確認されることとなった。この裁判に基づき、2004年には浅間大社側に土地が返還されることとなった。ただし、静岡県・山梨県の県境が未確定のため、土地登記はしていない。
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