上陸準備
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連合軍は思わぬ反撃を食らったとはいえ、グリーン諸島攻略に必要な人員と資材の見積もりができたので、本格的な上陸作戦の準備に移ることとなった。 上陸部隊の主力はニュージーランド軍のハロルド・エリック・バラクロウ(英語版)陸軍少将率いるニュージーランド第3師団(英語版)であり、ニュージーランド第3師団から4,242名、アメリカ軍から1,564名の計5,806名で構成されていた。上陸部隊輸送はセオドア・S・ウィルキンソン海軍少将の指揮する第3両用戦部隊が担当し、間接支援としてウォルデン・L・エインズワース海軍少将の第38任務部隊と、アーロン・S・メリル海軍少将の第39任務部隊の巡洋艦と駆逐艦が張り付いた。この2つの任務部隊は、日本軍がラバウルやブーゲンビル島、トラック諸島からグリーン諸島攻略阻止の部隊を繰り出したならば、これを迎撃する任務を担当していた。攻略部隊は2月13日にガダルカナル島を出撃し、グリーン諸島を目指した。 グリーン諸島をめぐる本格的な戦闘は、上陸予定日前日の2月14日から行われた。この日、日本側の偵察機が攻略部隊を発見した。この報告を受けてトラックからラバウルに進出してきたばかりの第二航空戦隊の艦上爆撃機18機のうち、6機が14日15時40分にラバウルを発進し、約1時間後の16時45分に第38任務部隊を発見して爆撃したが、2機が帰らなかった。この爆撃で、軽巡洋艦セントルイス (USS St. Louis, CL-49) が損傷し、25名が戦死して18名が負傷する被害を受けた。同じく軽巡洋艦ホノルル(USS Honolulu, CL-48) も至近弾を受けたが被害はわずかであった。日本側は、夜に入って魚雷装備の艦上攻撃機6機、爆弾装備の陸上攻撃機5機および艦上攻撃機1機を発進させて追い打ちをかけたが、煙幕と夜間戦闘機によって攻撃は阻止された。
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上陸準備
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「ノルマンディー上陸作戦」の記事における「上陸準備」の解説
詳細は「オーヴァーロード作戦#連合軍の侵攻計画」を参照 6月5日の夜9時少し前に、ノルマンディーの沖合に10隻あまりの船影が現れた。船の乗組員からははっきりとノルマンディーの街の明かりが見えるほどの距離であったが、ドイツ軍は全く気が付かなかった。これは先行してドイツ軍の機雷を除去していた連合軍の掃海艇であったが、掃海艇が任務を果たしている頃には、大小約5,000隻の大艦隊がドーバー海峡を渡ってノルマンディを目指していた。この大艦隊は見渡す限り水平線のかなたまでびっしりと艦影で埋め尽くしており、夜陰に紛れてその全体像を見ることはできなかったが、目の届く限りでは、至るところに大小の船が並んでいて、多くの水兵や兵士たちにとって一生忘れることのできない光景となった。 これほどの大艦隊であれば、ドイツ軍に事前に発見される可能性は高かったが、連合軍は水を漏らさぬ体制でそれを防ごうとした。上陸までの数週間に渡ってオランダからフランス一帯の、ドーバー海峡に面したすべての地域に存在したドイツ軍のレーダー基地を戦闘爆撃機が徹底的に叩き、まずはドイツ軍の目を奪っていた。さらにイギリス軍が誇る高性能夜間戦闘機デ・ハビランド モスキートの飛行中隊を、フランス沿岸で夜通しの哨戒任務にあたらせ、離陸してくるドイツ機を漏らさず撃墜できる体制を整えた。同様にイギリス国内の飛行場にも多数のアメリカ、イギリス軍の夜間戦闘機を待機させた。さらに無線妨害装置を装備した航空機も洋上で飛行させ、ドイツ軍夜間戦闘機が使用する周波数にジャミングをかけた。 同じころ、イギリスの100か所を超える飛行場では、アメリカ、イギリスに加え、ニュージーランド、オーストラリア、自由フランス、ポーランド亡命政府、チェコスロバキア亡命政府、オランダ、ベルギー、ノルウェーといった多国籍空軍の爆撃機や戦闘爆撃機が出撃準備をしていた。これまで連日に渡って連合軍爆撃機はフランス国内を爆撃しており、パイロットたちは薄々ながら軍の意図に気が付いてはいたが、出撃前のブリーフィングで「諸君、連合軍は本日、ヨーロッパ大陸に向け侵攻を開始する」という発表があると、たちまちブリーフィング、ルームは歓声でわきたった。連合軍はこの夜、持てる航空戦力の全てを投入する計画で、イギリス軍は延べ1,333機もの爆撃機が海岸の10か所の砲台に5,000トンの爆弾を叩きこむべく出撃した。 アメリカ軍も第8空軍の全力を投入しており、6月5日の夜からD-デイにかけてイギリスから出撃した連合軍航空機は実に延べ9,210機以上にもなり、ロンドンには一晩中爆音が鳴り響いた。そして投下された爆弾は11,912トンにも及んだ。爆撃は絶大な効力があり、カーンやサン=ローは建物多数が倒壊し、ドイツ兵に多数の死傷者が生じたと共に、街内は瓦礫の山で軍の移動に大きな支障をきたすこととなった。海岸の陣地でも被害が続出し、コタンタン半島の海岸線を守っていた第709歩兵師団の陣地には早期爆発用の信管を装着した対人爆弾が絶大な威力を発揮し、多数のドイツ軍兵士が死傷した。ユタ・ビーチにあったW5陣地では、爆撃機の対人爆弾に加え、ヤーボ(Jabo)が低空飛行で、海岸のトーチカをロケット弾などで精密攻撃したことから、多数の死傷者に加えて、配置されてあった対空砲が撃破され、また弾薬庫も誘爆したことから兵士は怯えてしまい、指揮官に対して「全滅です、倉庫も燃えています」「すぐに降伏しましょう」と泣きついてきたほどであった。 一方で、オマハ・ビーチに飛来したB-24リベレーター爆撃機329機は13,000発の爆弾を投下したが、ただの1発もオマハ・ビーチどころか高台に構えるドイツ軍陣地にも命中せず、ドイツ軍陣地奥の何もない尾根に着弾した。上陸直前にも爆撃機が飛来して援護のための爆撃を行ったが、海上を進行中の上陸用舟艇に誤爆しないよう投下のタイミングを遅らせたところ、また爆弾はあらぬ方向に着弾した。その様子を見ていたある指揮官は「連中はきっと、ベッドで寝ていても、あの集中爆撃と同じぐらいの戦果を挙げたに違いない」と嘆いた。 連合軍は海からの脅威にも完全に対応していた。ドイツ軍はビスケー湾の各基地に合計約100隻のUボートを配備していたが、ドーバー海峡には1隻も進入することができていなかった。ドイツ軍内でもUボートが上陸作戦に対抗することができないということは公然の秘密となっていた。それでも連合軍は完全を期し対潜哨戒機を夜通しで運用した。Uボート狩りに多大な成果を挙げていたB-24リベレーター爆撃機やショート サンダーランド飛行艇は昼夜問わず長時間飛行し、レーダーも活用してドーバー海峡の海域に目を光らせ続けた。D-デイ当日はUボートを近づけることはなく見事に任務を果たし、翌6月7日に反撃のためドーバー海峡に接近してきたUボートを事前に発見、中でも第224飛行中隊のB-24リベレーターは22分の間に2隻のUボートを撃沈し、Uボート隊を撃退している。 機雷により掃海艇に多少の損害はあったが、ドイツ軍にはまったく気づかれることなく大船団は午前1時40分から午前3時にかけて所定の海域に達した。そこで多少の混乱はありながらも、輸送艦隊は整然と指定海域に移動して錨を下ろし「投錨完了」の報告を行った。指定海域に向かう輸送艦内では上陸部隊の兵士にかなり早い豪華な朝食が振舞われれていた。アメリカ軍攻撃輸送艦「サミュエル・チェーイス(英語版)」の艦内ではありったけのステーキ、ポーク、チキン、アイスクリーム、キャンディが供され、他の艦艇でも、ソーセージ、豆料理、コーヒー、ドーナツが食べ放題だった。一方でイギリス軍艦艇では普段と変わらないコンビーフサンドウィッチが出されたが、それにごく少量のラム酒が“まるでネルソン提督の時代”のように追加されただけであった。そんな陸軍の将兵たちを不憫に思ったイギリス海軍の水兵たちは、自分たちの食料を融通することを申し出て、ある艦ではゆで卵2つとチーズサンドウィッチがメニューに追加されたという。 ドイツ軍が最初にこの大船団を発見したのは、午前3時9分で既に輸送艦隊の投錨が進んでいる最中であった。ドイツ海軍のレーダーが大艦隊の一部を捕えたため攻撃が命じられたが、夜明け前までは大きな戦闘はなかった。連合軍はポワント・デュ・オックなどのドイツ軍大口径砲を実情以上に過大評価しており、砲の射程外と判断した11マイルも沖合に艦隊を停泊させていた。連合軍海軍は、海岸の火砲を事前に沈黙させることが必要と考えて、上陸前2時間の艦砲射撃を提案したが、陸軍側は2時間もかけたのでは奇襲的要素が薄れて敵の増援が到着するから40分で構わないとした。協議の結果、陸軍側の意見が通って上陸前40分の艦砲射撃となったが、40分でも2時間でも時間としては不十分であり、多くの海岸陣地は健在で、一部海岸での苦戦要因となってしまった。これは、太平洋の上陸作戦でサイパンの戦いでは丸2日、硫黄島の戦いでは丸3日であったことを見ると明らかに短すぎた。
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