ユタ・ビーチとは? わかりやすく解説

ユタ・ビーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/02 08:44 UTC 版)

ノルマンディー上陸作戦 > ユタ・ビーチ
ユタ・ビーチの戦い

ユタ・ビーチに上陸する強襲上陸用DD戦車
戦争第二次世界大戦西部戦線
年月日1944年6月6日
場所フランス プップヴィル、ラ・マドレーヌ
結果:連合軍(アメリカ軍)の勝利
交戦勢力
アメリカ合衆国 ドイツ国
指導者・指揮官
セオドア・ルーズベルト・ジュニア准将 カール=ヴィルヘルム・フォン・シュリーベン大将
ディートリッヒ・クライス中将
戦力
第4歩兵師団
32,000
第709歩兵師団
第352歩兵師団
不明
損害
200 不明
ノルマンディー上陸作戦
ユタ・ビーチに移動中の完全装備のアメリカ軍の攻撃部隊。後ろに上陸用舟艇があり、混雑した海岸。1944年6月6日
ユタ・ビーチ上陸地図

ユタ・ビーチ(Utah Beach)は、1944年6月6日、連合国のオーヴァーロード作戦における最初の攻撃であるノルマンディー上陸作戦(ネプチューン作戦)において5つの上陸地点の1つに連合国側が付けたコードネームである。

ユタは、上陸用舟艇がもっと利用可能と分かった時、計画段階の最後に侵攻計画に加えられた。 もちろん、重要な拠点ではあるが、アメリカ第4歩兵師団は比較的少ない抵抗で上陸した。対照的にオマハ・ビーチは激戦となった。ユタ・ビーチは3マイルの長さがあり、5つの上陸地点のうち最も西側で、プップヴィル(Pouppeville) と ラ・マドレーヌ(La Madeleine)の間にあった。

この上陸のための事前演習は、「タイガー演習(exercise Tiger)」の名称で1944年4月にイングランド南西部デヴォン州スラプトン(Slapton)海岸で行われた。訓練では上陸部隊に対する海軍の護衛が不足、ナチス・ドイツSボートによる攻撃を許し、749人のアメリカ兵が死亡、300人が負傷した。ユタ・ビーチ上陸時の損害は、他地点と比較すると少なかったが、事前の空挺降下の損害も含むと、必ずしも損害が少なくはなかった。

攻撃計画

攻撃は4波に分けられ、第1波は、20のヒギンズボートもしくは上陸用舟艇(LCVP)からなり、それぞれに第8歩兵連隊から30人の兵士を乗せていた。 右翼の10の舟艇はレ・デュヌ・ド・ヴァルヴィル(les Dunes de Varreville)の強固な拠点の反対側にある「ターレ」のグリーン・セクターに上陸した。 左翼の10の舟艇は、南へ1000ヤード(910m)離れた、「アンクル」のレッド・セクターに上陸を意図していた。 全計画は、最初の攻撃の第1波の上陸に対して時間が決められていた。第1波は、06:30に、8隻のLCT各々が、4台のDD戦車を運び、可能な限り同時上陸する予定であった。 第2波は、2つの攻撃大隊の増援を乗せた、32隻のLCVPから成り、8つの工兵部隊が海岸と海底の構造物を除去する予定であった。 第3波は、第1波の15分後、8台以上のLCTに工兵車両(ドーザー戦車)を乗せ、続き2分後、第4波の第237、第299戦闘工兵大隊の主力が上陸、満潮と干潮の間の海岸にある障害物を除去する予定だった。

アメリカ海軍戦艦「ネヴァダ」によるユタ・ビーチへの艦砲射撃。1944年6月6日

上陸決行(D-Day)

主力上陸2時間前、ナイフのみで武装したレンジャー部隊がサン・マルクフ島(Îles Saint-Marcouf)に泳いで上陸した。そこは、ドイツの監視ポストと思われる場所であった。そこは占拠されなかった。第1波は作戦開始地点に予定通り到着した。全ての20隻の上陸用舟艇は並んで進軍した。後方にいる支援用の舟艇が地雷を爆発させることを期待し、機銃を射撃した。LCVPが海岸から300から400ヤード(273から364m)まで近づくと、攻撃中隊の指揮官は、特殊な煙幕の発射装置を用いて、海軍の支援舟艇の射撃を中止するように連絡した。

ほぼ、予定の時間に上陸用舟艇のタラップがおり、600人の兵士が腰まである水の中を100ヤード(91m)以上も海岸に向かって前進した。海岸に実際到達した時間は数分後であったが、遅れは無視でき、上陸計画の進行に影響はなかった。また、敵の砲兵による砲撃の着弾が海上にあったが上陸時間に影響しなかった。

最初の上陸は第8歩兵師団の第2大隊によって行われた。第1大隊は数分遅れる。両者ともの予定の海岸の南に到着した。 第2大隊は、Exit3(地図参照)の反対にあるアンクル・レッド・ビーチを攻撃するはずで、第1大隊は、強固の防御拠点であるレ・デュヌ・ド・ヴァルヴィルの反対に直接上陸し支援を行う予定であった。しかし、上陸は、2,000ヤード(1,820m)南のExit2の横に行われた。

この間違いは、多大な混乱を引き起こす可能性があり、非常に致命的なものであった。しかし、その様な混乱は実際には生じなかった。もちろん、これによって、それぞれの攻撃区画で計画していた特別任務を当初の計画通り実行することはできなくなった。第4歩兵師団の副指揮官のセオドア・ルーズベルト・ジュニア准将は、第1波と一緒に行き、自分が海岸の抵抗拠点への初期攻撃を指揮することを、何度も求めた。最終的に、彼の要求は第4歩兵師団の師団長のバートン将軍に認められた。ルーズベルトは、D-Dayの第1波と一緒に上陸した唯一の将軍であり、57歳の最も年をとった兵士でもあった。ルーズベルトが自分の乗っている上陸用舟艇が予定地点から南に流され、目標より1マイル以上南にいることに気がつき、第1波も1マイル南にいることに気がついたため、杖と拳銃の助けを借りて、彼自身、内陸へ進むために使用する道を確認するため、海岸の後方の地域の偵察を即座に行った。

彼は、上陸地点に戻り、2つの大隊の指揮官、コンラッド・C・シモンズ中佐とカールトン・O・マックネリー中佐に接触した。そして、彼らが直面している敵への攻撃を指示した。この状況をルーズベルトの有名な言葉で言えば、「我々はここから戦いを始めるのだ!」となる。これらの即興での計画は、少々の混乱はあったものの成功した。上陸した砲兵と、随伴した各連隊は落ち着いて冷静なルーズベルトにより海岸に迎えられた。彼はユーモアと自信に満ちていた。ルーズベルトは、各連隊に目標の変更指示を与えた。しばしば、彼は砲火の中自分で交通整理を行い、海岸から内陸に進もうとする戦車とトラックの交通渋滞の混乱を解決した。このユタ・ビーチの行動により、ルーズベルトは名誉勲章を受けた。

ドイツ側の海岸防備は、第709歩兵師団カール・ヴィルヘルム・フォン・シュリーベン大将と、第352歩兵師団のディートリッヒ・クライス大将であった。

ユタ・ビーチの海岸障害物の破壊のために止まっているDD戦車、この写真は上陸後すぐ撮られた
ユタ・ビーチのサン・マルコフのフランスの村のアメリカ空挺降下兵1944年6月6日

成功

D-Day終わりには、23,250人の兵士が1,700台の車両と共に無事海岸へ上陸。上陸においては、約200名の犠牲者のみと記録されている。ユタ・ビーチの成功とオマハ・ビーチでの激しい戦闘を比較すると

  • ドイツの要塞が少ない。このエリアの防備は海岸付近平地が洪水を起こすことによって壕が少なかった。
  • 効果的な事前爆撃: サン・マルタン・ド・ヴァルヴィル付近の海岸近くの知られていた大きな壕はD-Day前の航空攻撃で破壊されていた。
  • 強襲上陸用戦車: オマハの半数だったにもかかわらず、これらの水陸両用戦車ほとんどが上陸成功。これらの戦車は、荒れた海で沈没を避けるため、流れの中で舵をとることができた。
  • 上陸ミス: 上陸兵力のほとんどはExit2の反対に上陸したので、この進撃路が使用された。他のExitへの道は強力に要塞化されていた。
  • 空挺降下: もっとも大きな違いは13,000人の101空挺降下師団と82空挺降下師団が既に内陸で戦闘していた。ユタ上陸の5時間前、空挺降下兵(とグライダー降下兵)は、降下地点から海岸に向かって、敵を排除しながら進軍していた。空挺降下兵は敵を混乱させ、上陸地点の効果的な反撃を無効にした。

ユタ・ビーチの実際の損害は、空挺降下兵の大損害に反映されている。第101空挺降下師団は、D-Dayにその戦力の40%を失う。同様に、ユタ・ビーチでの攻撃を想定した訓練、タイガー演習での1,000名の損害は、D-Dayの代価と言える。

ユタ・ビーチに関連した人々

ユタビーチの歌

1994年6月、サント=メール=エグリーズ近くのカランタンで、1944年6月に第101空挺師団による解放を記念した歌が作られた。この歌はDaniel Bourdelèsにより製作され、CD "La mémoire du ciel"に収録されている。

参照

外部リンク


ユタ・ビーチ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:32 UTC 版)

ノルマンディー上陸作戦」の記事における「ユタ・ビーチ」の解説

ユタ・ビーチには「稲妻ライトニングジョー」の異名を持つジョーゼフ・ロートン・コリンズ中将率い第7軍団上陸したが、その第1波となる第4歩兵師団第8歩兵連隊兵員乗せた上陸用舟艇が、潮流流されてヴィール河口部辿り着いた。これは計画より2,000ヤード南方となったが、本来の上陸地点よりドイツ軍防備弱かったまた、オマハ・ビーチでは荒波のためにDD戦車次々と没してしまったが、こちらの波は比較的穏やかでありDD戦車も殆ど無事に上陸成功している。 オマハ・ビーチとは違ってユタ・ビーチは上陸前の砲爆撃でかなり叩かれていたうえ、上陸直前にはロケット中型揚陸艦に、大量ロケット弾撃ち込まれてさらに損害増大した激しい砲爆撃にも生き残ったドイツ兵たちは、アメリカ軍の上陸舟艇DD戦車海岸向かってくるのを見て、完全に裏をかかれて干潮時に侵攻してきたことを知りロンメル計算外れた」と考えたドイツ兵たちは東部戦線での経験通り、敵を確実に仕留められる100m位置まで引き付けろと命じられていたが、続々上陸してくるアメリカ兵見てたまらず500mの距離で射撃開始したルノー FT-17 軽戦車地面埋め込んで作れられた即席トーチカ機関銃上陸してきたアメリカ兵なぎ倒したが、やがて上陸してきたDD戦車が姿を現した。大きなゴム製の気嚢付けた姿は味方重戦車見慣れているドイツ兵の目にも怪物のようにうつったという。わずかに生き残っていたアハト・アハトがその怪物向けて砲撃開始し命中はしなかったものの、至近弾で吹き飛ばされ停止した為、それを見ていたドイツ兵は歓声上げたが、ドイツ軍善戦長続きすることはなく、今までの砲爆撃破損していたアハト・アハトは1発の砲撃で完全に壊れてしまい、ルノー戦車トーチカ後続DD戦車砲撃受けて撃破されてしまった。追い込まれドイツ軍最後の手段として、新兵器ゴリアテ投入したが、絶え間ない爆撃振動誘導装置故障しており、うまく誘導することができず1発も命中することはなかった。 ユタ・ビーチに真っ先上陸した将官は、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルト息子セオドア・ルーズベルトJr英語版准将であったルーズベルトJr体調崩してをついていたが、大胆不敵に銃弾飛び交うなかを、絶え冗談をかわしながら悠然と歩きまわっていた。精鋭配置されていたオマハ・ビーチとは全く異なり、ユタ・ビーチのドイツ兵はじっくりと狙い定めて正確な射撃をしようとする意図感じられず、アメリカ兵から見ると「ビーチ方向に向け、ただ銃口左右に振っている」ようにしか見えなかったという。ユタ・ビーチにおける上陸部隊任務は、ドイツ兵が小銃機関銃構えて立て籠もる孤立した陣地一つ一つ虱潰しにしていくこととなり、その様正規軍同士戦闘というよりはむしろ対ゲリラ戦のようなものとなった上陸部隊兵士には敵が武装親衛隊兵士であれば爆弾手榴弾隠し持っている危険性が高いため皆殺しにするようにと指示されていたこともあり、1時間足らずでユタ・ビーチを守るドイツ兵は一掃されてしまった。一方で上陸部隊損害軽微で、死傷者数197名と全上陸管区最少であった。 ユタ・ビーチでの最大損害艦砲射撃のために海岸接近していたアメリカ軍コリー英語版)」の損失となった。「コリー」は海岸接近すると、浅瀬投錨して沿岸ドイツ軍砲台砲撃戦演じたが、あまりに激し速射で「コリー」の艦砲砲身灼熱したため、平が消火ホースをかけて冷却しなければいけないほどであった。やがて110発の砲弾浴びせて砲台撃破すると、他のドイツ軍砲台目の敵にして「コリー」に砲撃集中した。「コリー」は錨を上げると、ドイツ軍砲撃巧み操艦でかわし続け逆にドイツ軍砲台有効な砲撃浴びせたが、その様子はあたかもコリー」がバレエをしているように見えたという。 ドイツ軍砲弾避け続けたコリーであったが、ドイツ軍設置していた機雷触雷し、激し衝撃で艦は海上から一旦持ち上がって海面叩きつけられると、艦体がほとんど真っ二つとなってしまった。「コリー」はあたかも屑鉄の山のようになってそのまま慣性1㎞ほど進んだが、動き止まったコリー」にドイツ軍砲台集中砲撃加えてそのまま撃沈した激し戦闘により沈没したコリーであったが、人的損失思いのほか少なく、全乗組員284人中戦死行方不明13人、負傷者33人に収まった。しかし、この「コリー」の沈没は、D-デイにおける“史上最大”の大艦隊の最大損失且つアメリカ海軍唯一の損失となった

※この「ユタ・ビーチ」の解説は、「ノルマンディー上陸作戦」の解説の一部です。
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