上陸決行(D-Day)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:43 UTC 版)
「ユタ・ビーチ」の記事における「上陸決行(D-Day)」の解説
主力上陸2時間前、ナイフのみで武装したレンジャー部隊がサン・マルクフ島(Îles Saint-Marcouf)に泳いで上陸した。そこは、ドイツの監視ポストと思われる場所であった。そこは占拠されなかった。第1波は作戦開始地点に予定通り到着した。全ての20隻の上陸用舟艇は並んで進軍した。後方にいる支援用の舟艇が地雷を爆発させることを期待し、機銃を射撃した。LCVPが海岸から300から400ヤード(273から364m)まで近づくと、攻撃中隊の指揮官は、特殊な煙幕の発射装置を用いて、海軍の支援舟艇の射撃を中止するように連絡した。 ほぼ、予定の時間に上陸用舟艇のタラップがおり、600人の兵士が腰まである水の中を100ヤード(91m)以上も海岸に向かって前進した。海岸に実際到達した時間は数分後であったが、遅れは無視でき、上陸計画の進行に影響はなかった。また、敵の砲兵による砲撃の着弾が海上にあったが上陸時間に影響しなかった。 最初の上陸は第8歩兵師団の第2大隊によって行われた。第1大隊は数分遅れる。両者ともの予定の海岸の南に到着した。第2大隊は、Exit3(地図参照)の反対にあるアンクル・レッド・ビーチを攻撃するはずで、第1大隊は、強固の防御拠点であるレ・デュヌ・ド・ヴァルヴィルの反対に直接上陸し支援を行う予定であった。しかし、上陸は、2,000ヤード(1,820m)南のExit2の横に行われた。 この間違いは、多大な混乱を引き起こす可能性があり、非常に致命的なものであった。しかし、その様な混乱は実際には生じなかった。もちろん、これによって、それぞれの攻撃区画で計画していた特別任務を当初の計画通り実行することはできなくなった。第4歩兵師団の副指揮官のセオドア・ルーズベルト・ジュニア准将は、第1波と一緒に行き、自分が海岸の抵抗拠点への初期攻撃を指揮することを、何度も求めた。最終的に、彼の要求は第4歩兵師団の師団長のバートン将軍に認められた。ルーズベルトは、D-Dayの第1波と一緒に上陸した唯一の将軍であり、57歳の最も年をとった兵士でもあった。ルーズベルトが自分の乗っている上陸用舟艇が予定地点から南に流され、目標より1マイル以上南にいることに気がつき、第1波も1マイル南にいることに気がついたため、杖と拳銃の助けを借りて、彼自身、内陸へ進むために使用する道を確認するため、海岸の後方の地域の偵察を即座に行った。 彼は、上陸地点に戻り、2つの大隊の指揮官、コンラッド・C・シモンズ中佐とカールトン・O・マックネリー中佐に接触した。そして、彼らが直面している敵への攻撃を指示した。この状況をルーズベルトの有名な言葉で言えば、「我々はここから戦いを始めるのだ!」となる。これらの即興での計画は、少々の混乱はあったものの成功した。上陸した砲兵と、随伴した各連隊は落ち着いて冷静なルーズベルトにより海岸に迎えられた。彼はユーモアと自信に満ちていた。ルーズベルトは、各連隊に目標の変更指示を与えた。しばしば、彼は砲火の中自分で交通整理を行い、海岸から内陸に進もうとする戦車とトラックの交通渋滞の混乱を解決した。このユタ・ビーチの行動により、ルーズベルトは名誉勲章を受けた。 ドイツ側の海岸防備は、第709歩兵師団カール・ヴィルヘルム・フォン・シュリーベン大将と、第352歩兵師団のディートリッヒ・クライス大将であった。
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