南遣艦隊司令長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:17 UTC 版)
詳細は「マレー作戦」を参照 1941年(昭和16年)10月18日南遣艦隊司令長官。兼馬来(マレー)部隊指揮官。着任後、シンゴラ方面への上陸と同時に行うか中央で問題となっていたコタバル上陸について同時上陸を行うと決定した。 12月6日、対米英開戦に伴うマレー作戦に向かっていた日本の船団部隊は英軍機に触接され、小沢は英軍による先制攻撃の公算が大きいと判断して厳重に警戒していた。開戦前であったが、小沢は南遣部隊旗艦の重巡洋艦「鳥海」で発見したこの英哨戒機を打ち落とす命令を出している。12月1日に大本営海軍部は輸送船団を偵察する航空機が現れた場合の撃墜を指示していた。また、この朝に今次作戦の機密書類を搭載した陸軍徴用機が中国沿岸に不時着し、それらの書類が中国軍の手に入った疑いがある旨、大本営海軍部から通報もあった。したがってこの撃墜を契機にこの方面で日英が戦闘状態に入り、南方作戦全体に大きな影響を与える心配があったが、小沢中将はこれくらいで破たんすることはないと考えていたという。「神川丸」の零式水偵が索敵の帰途に英軍飛行艇(PBY型)を発見し、交戦中、約10機の陸軍機がこれを発見して撃墜した。 予期された英航空部隊の反撃はなく、英艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下中将に伝えて同意を得て、午前10時30分、分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、英艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた。 12月8日、太平洋戦争開戦。小沢はマレー作戦を指揮。英東洋艦隊からの反撃を受けないまま上陸作戦に成功した。しかし、英軍が将来的に好機をつかんで反撃に来る公算はあり、これに対し、南シナ海の哨戒強化、セレター在泊中の英戦艦に航空攻撃を加えて同港からの後退を強要する必要があった。さらに作戦海面では敵潜出没の報が頻繁にあり、少なくとも3隻以上の潜水艦が作戦に従事している様子で各部隊は対潜掃蕩を徹底してその制圧撃破を図る必要もあった。これらの情勢判断に基づき、小沢中将は主に航空部隊と潜水部隊をもって英海空部隊の反撃に備え、水上部隊の大部分は次期作戦の準備を行うと定めて発令した。 12月9日、伊65が艦影二を発見、英艦隊発見の第一報を打電した。マレー沖海戦が発生。小沢の馬来部隊主隊に対し英主力艦誘致を命じた南方部隊命令が発令されたが、英戦艦発見時に主隊は南方部隊本部と第三水雷戦隊主力とは200海里も離れていたので、所在の水上部隊と航空部隊、潜水部隊をもって索敵攻撃を決意していた小沢の意図と異なるものであった。そのため、小沢は「第一航空部隊及潜水部隊は今夜敵主力に極力触接攻撃せよ」「水上部隊は明天明後 航空部隊、潜水部隊の攻撃に策応機宜攻撃を加へつつ味方主力に誘致したる後決戦せんとす」と馬来部隊電令作第二六号として発令する。 小沢艦隊は英艦隊と夜戦による雷撃での戦闘を行う作戦だったが、小沢艦隊は悪天候で敵と誤認した味方航空機から吊光投弾を受けて接近され、敵前で味方である信号を探照灯で発信し、航空司令部に緊急連絡することになった。この混乱で航空機は連携上危険とし夜戦はおろか触接誘致も困難であることから英艦隊撃滅をあきらめ、一時戦場を撤退、南方部隊と合流するために進路を北北東にとり、また英艦隊も察知されていると気づき奇襲困難のため作戦を中止し反転したため会敵はなかった。両艦隊は1時間ほどで会敵する距離まで近づいていた。第二十二航空戦隊を基幹とする第一航空部隊に10日早朝に攻撃を命じ、大英帝国海軍東洋艦隊の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを撃沈した。退艦を拒否しプリンス・オブ・ウェールズと運命を共にしたトーマス・フィリップス提督の話を聞いた小沢は「俺もいつかはフィリップスと同じ運命をたどらねばなるまい」と話した。 コタバル上陸作戦支援。ジャワ上陸作戦で陸軍大将・今村均と交友関係を持ち、戦後もお互いの家がさほど離れていないことから交友は続いた。今村は小沢の伝記に寄せた序文が絶筆となった。少ない被害で予定通り任務をこなし陸軍から感謝された。1942年(昭和17年)2月15日、小沢はスマトラ島南部東方バンカ島沖で敵艦隊を発見したが、日本の制空権下で水上兵力も優勢にもかかわらず船団護衛を理由に撃滅の機会を逃した。 詳細は「インド洋作戦」を参照 3月9日、連合艦隊長官山本五十六大将は南方部隊の第一航空艦隊でセイロン島を攻撃してイギリス東洋艦隊を撃滅するインド洋作戦を計画し、南方部隊指揮官・近藤信竹中将に対し、機密連合艦隊電令作第八六号で「錫蘭(セイロン)島方面機動作戦ヲ実施スベシ」と命じた。これを知った小沢はかねてから研究中のベンガル湾北部機動作戦を、情勢の許す限り策応させるべきであると近藤中将に上申し、近藤が山本の了解を得てインド洋作戦に組み込んだ。4月、インド洋作戦に参加し、第一航空艦隊のセイロン攻撃も助けとなり、ベンガル沖で船舶14隻撃沈3隻撃破に成功する。7月、軍令部出仕。
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