コタバル方面
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マレー上陸作戦で最も困難な任務を負ったコタバル上陸部隊は、佗美浩少将率いる佗美支隊(歩兵第56連隊、山砲兵一コ大隊基幹)で、兵力は約5500名、これを輸送する輸送船「淡路山丸」「綾戸山丸」「佐倉丸」はいずれも優速船であり、「佐倉丸」は防空基幹船として重武装していた。3隻合わせた搭載舟艇は約60隻、一回で2000人を輸送する能力があった。コタバル上陸船団部隊は第三水雷戦隊司令官・橋本信太郎海軍少将の指揮のもと解列後先遣兵団主力船団と並進した。隊形は「綾波」「磯波」、掃海艇2隻、駆潜艇1隻が3隻の輸送船を直接護衛し、旗艦「川内」、「敷浪」「浦波」は船団の前方20キロに幅30キロの掃蕩隊形を制形するものだった。1941年12月7日午後4時30分、浦波はノルウェーの商船HAFTHOKを発見し、情報活動の疑いがあったため、自沈させた。さらに午後7時25分、英ブレンハイム型爆撃機を発見したため射撃したが見失った。 1941年12月8日午前1時35分、第一回上陸部隊約1300名は約20隻の舟艇で隊形を整えてコタバル陸岸へ進発した。第二回上陸部隊は第一回の30分後に出発予定であったが遅れ、午前2時45分、那須歩兵連隊長以下が出発した。午前3時30分、第一回の舟艇の一部が船団に帰ってきたころ、英軍機3機が日本の船団と艦艇に攻撃を開始し、その後一時間にわたり低空爆撃と機銃掃射を反復した。そのため、橋本少将は揚陸を第二回までで中止し、船団はシンゴラに退避するべきと陸軍に意見を述べたが、陸軍の支隊長は上陸戦闘遂行上認めがたく3回必要であるとして、午前6時30分までに上陸が終了するとの支隊長の判断に基づき、同時刻になったら揚陸状況にかかわらず船団を退避することで合意した。第三回上陸部隊は第一回で使用した舟艇が細切れに戻ってくるのに逐次移乗出発することになった。その間、英軍機4機の反復攻撃により「淡路山丸」が被弾炎上して放棄され、残る2隻の輸送船も被爆して150名以上の死傷者が出た。午前7時、橋本少将は泊地の各艦に退避を命じた。上陸した第一線部隊は英軍の水際陣地に苦戦し、日没までにコタバル飛行場を占領する目標は達せられなかったが、佗美支隊は800名以上の死傷者を出す激戦ののち、8日夜半占領に成功。9日午前にはコタバル市街に突入し、英軍を急追して南進を続けた。 陸軍航空隊の第3飛行集団は、陸軍航空の第一人者となっていた菅原道大少将が指揮し、陸軍航空隊のエリートを集めた精鋭部隊であったが、主力の九七式戦闘機の航続距離が短く十分な航空支援ができていなかった。そこで菅原は今まで培ってきた航空の知識やノウハウを十二分に発揮し、豊かな発想で航空作戦を展開、「上陸部隊が飛行場を占領しだいそこに着陸せよ」という大胆な作戦を、第12飛行団長青木武三大佐に命じた。青木は自ら九七式戦闘機に乗り込んで船団護衛任務に就くと、地上部隊から「敵飛行占領す」との報告がなかったにも関わらず、自ら先頭に立って決死の覚悟でシンゴラ飛行場に強行着陸した。飛行場はすでに日本軍地上部隊が占領しており、味方の戦闘機が滑り込んできたのを見た日本軍将兵は歓声をあげ、作戦成功の知らせを受けた菅原も喜んでいる。菅原は占領したての飛行場に九九式双発軽爆撃機を進出させて、周囲のイギリス空軍の飛行場を攻撃させて制空権の獲得に努めた。 コタバルを引き揚げてシンゴラに移動した「川内」の橋本少将は陸軍戦闘機隊によるコタバル上空警戒の実施を第二十五軍司令部に要請しようと参謀を派遣したが、作戦中の混乱で連絡が取れなかった。しかし、コタバルで苦戦中の佗美支隊を見殺しにもできず、午後3時40分、橋本少将は「川内」と駆逐艦4隻でシンゴラを出発し、パタニ方面の駆逐艦2隻にも合同を命じた。そのため、コタバル再揚陸は生き残りの2隻の輸送船に対して、軽巡1、駆逐艦10、掃海艇2、駆潜艇1、計14隻が護衛することになった。午後4時、橋本少将は馬来部隊に海軍航空部隊の支援を電請した。9日午前7時20分頃、輸送船は陸上戦闘の状況が不明のため、8日の錨地に投錨し(9日の錨地はツンバット港沖の予定だった)、コタバル揚陸作業を再開した。午前9時50分、日本の陸軍戦闘機が上空警戒を開始。護衛部隊は徐々に引き上げ、最後に残った第十九駆逐隊第一小隊も輸送船の揚陸を終えると午後6時30分に引き上げた。なお、擱座状態の輸送船「淡路山丸」は、12月12日にオランダ潜水艦「K12(nl)」の雷撃を受けて全損となった。
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