渡洋作戦
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1941年12月4日、三亜で作戦の全船団の出撃を確認した馬来部隊指揮官・小沢治三郎海軍中将は、最後に馬来部隊主隊を率いて同地から出撃した。マレー攻略船団部隊は午前8時までに警戒航行隊形の制形を終えた。この日は晴れ・風向北・風速5米で、山下奉文陸軍中将以下約2万人の第二十五軍先遣兵団の乗船する輸送船18隻は、小沢中将の指揮する重巡5隻、軽巡1隻、駆逐艦14隻、駆潜艇1隻、合計21隻の艦艇に護衛され、マレー半島を目指して進撃を開始した。一方、南方部隊指揮官・近藤信竹海軍中将も、戦艦2隻、重巡2隻、駆逐艦10隻から成る南方部隊本隊を率いて同日午後12時45分馬公を出撃し、約700海里南西方にあるマレー攻略船団部隊の支援のために続行した。 6日午後1時45分、船団護衛中の各艦は機影を発見し、日本側が英軍機と確認できたその飛行機は船団に接近し、護衛艦艇の射撃圏外から偵察を続けた。午後3時、小沢中将は航空機による英軍機撃墜を第一、第二航空部隊に命令した。12月1日に大本営海軍部は輸送船団を偵察する航空機が現れた場合の撃墜を指示していた。また、この朝に今次作戦の機密書類を搭載した陸軍徴用機が中国沿岸に不時着し、それらの書類が中国軍の手に入った疑いがある旨、大本営海軍部から通報もあった。したがってこの撃墜を契機にこの方面で日英が戦闘状態に入り、南方作戦全体に大きな影響を与える心配があったが、小沢中将はこれくらいで破たんすることはないと考えていたという。しかし、両航空部隊は英軍機を発見できなかった。7日午前3時、小沢中将は第二航空部隊に夜間索敵を命じ、午前9時50分、「神川丸」の零式水偵(緒方英一予備少尉)が索敵の帰途に英軍飛行艇(PBY型)を発見し、交戦中、約10機の陸軍機がこれを発見して午前10時15分これを撃墜し、午前11時、「山陽丸」艦長がこの報告を小沢に送信した。 予期された英航空部隊の反撃はなく、英艦隊も認めない状況をかんがみ、小沢中将は予定通りの上陸を決意し、「予定どおり甲案により上陸決行、コタバルも同時上陸」の意図を山下中将に伝えて同意を得て、午前10時30分、分進地点に到着すると、各部隊は予定上陸地点(コタバル方面、シンゴラ・パタニ方面、ナコン方面、バンドン・チュンポン方面、プラチャップ方面)に向かって解列分進した。7日夜半、馬来部隊主隊および護衛隊本隊はコタバル沖80~100海里付近に達し、英艦隊の反撃に備えながら上陸作戦支援の態勢を整えた。
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