護送船団
船団護衛
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1944年(昭和19年)12月5日、屋久は連合艦隊南西方面艦隊第五艦隊第三十一戦隊第21海防隊に編入。23日、陸軍輸送船めるぼるん丸(大阪商船、5,438トン)他輸送船1隻からなるモタ29船団を第26号海防艦、第60号海防艦、第205号海防艦と共に護衛して門司を出港。同日、第26号海防艦は船団から分離し、門司に戻った。同日、屋久は連合艦隊に編入された。31日、船団は高雄に到着。 詳細は「ヒ87船団」を参照 1945年(昭和20年)1月3日、屋久は輸送船9隻からなるタア01船団を駆逐艦朝顔、海防艦新南と共に護衛して高雄を出港し、5日に厦門に到着。6日、新南と共に厦門を出港し、7日に左営に到着。10日、ヒ87船団を護衛し左営発。13日、香港に到着。20日、ヒ87B船団を護衛し香港を出港。21日、新南が海南島南口で触礁したため、香港で積載した託送品と便乗者の移載を受ける。22日に船団は海南島南口を出港。途中屋久は船団から分離し、27日にサンパット湾に到着。託送品と便乗者を降ろした。 詳細は「南号作戦」を参照 2月4日、屋久はサンパット湾を出港し、同日中にヒ88D船団に合流。そのまま船団の護衛を行う。6日深夜、船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯06度31分 東経106度12分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200のサイゴン南方470km地点付近でアメリカ潜水艦パンパニト(USS Pampanito, SS-383)に発見される。2305、パンパニトは魚雷を発射し、海軍配当船延元丸(日本郵船、6,890トン)の右舷機関室に命中。同船は2分で沈没した。7日、船団は北緯06度58分 東経106度08分 / 北緯6.967度 東経106.133度 / 6.967; 106.133の地点でパンパニトとウルフパックを組んでいたアメリカ潜水艦ガヴィナ(USS Guavina, SS-362)に発見される。0454、ガヴィナは魚雷6本を発射し、海軍配当船大暁丸(大阪商船、6,892トン)の右舷3番船倉、1番船倉、2番船倉の順に3本が命中。同船は5分で沈没した。8日、船団はサイゴンに到着し、同地で解散となった。9日、屋久はサイゴンを出港し、13日にシンガポールに到着。 16日、屋久はヒ88H船団を護衛してシンガポールを出港。途中で陸軍油槽船鳳南丸(拿捕船/飯野海運委託、5,542トン/旧英船War Sirdar)がサンジャックに向かうため船団から分離。22日昼前、船団は北緯11度30分 東経109度06分 / 北緯11.500度 東経109.100度 / 11.500; 109.100のインドシナ半島ファンラン湾口でアメリカ潜水艦ベクーナ(USS Becuna, SS-319)に発見される。1045、ベクーナは魚雷4本を発射し、うち1本が海軍配当船日翼丸(日産汽船、1,943トン)の左舷機関室に命中。被雷した同船は右舷に傾斜した後沈没。屋久以下護衛艦は爆雷65発を投下したが、ベクーナに損害はなかった。同日1900、船団はナトランに到着し、23日に出港。同日、船団は北緯12度42分 東経109度30分 / 北緯12.700度 東経109.500度 / 12.700; 109.500のインドシナ半島バレラ岬沖南方20km地点付近でアメリカ潜水艦ハンマーヘッド(USS Hammerhead, SS-364)に発見される。1210、ハンマーヘッドは魚雷4本を発射。うち2本が屋久の右舷艦首に立て続けに命中し、屋久は轟沈した。25日、船団はツーランに到着した。海防艦長の三井湜少佐以下乗員134名が戦死。 4月10日、屋久は鵜来型海防艦から削除され、帝国海防艦籍から除かれた。屋久の艦名はアメリカから貸与された海上自衛隊の掃海艇「やくしま」(元YMS-135級特務機動掃海艇オスプレイ(USS Osprey, AMS-28))に引き継がれた。
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船団護衛
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「アトランタ (軽巡洋艦)」の記事における「船団護衛」の解説
アトランタは引き続きスコット少将の旗艦として行動し、4隻の駆逐艦とともに輸送艦ゼイリン (USS Zeilin, APA-3) 、リブラ (USS Libra, AK-53) およびベテルギウス (USS Betelgeuse, AK-28) を護衛してガダルカナル島に向かった。11月12日、アトランタと駆逐艦は第62.4任務群を編成してルンガ岬に到着し、輸送艦は部隊と物資を揚陸した。 9時5分、任務群は「北西方向から9機の爆撃機と12機の戦闘機が向かっており、9時30分ごろに到達するであろう」との報告を受け、3隻の輸送艦を駆逐艦で護衛した上で北方に避退させた。15分後、空母飛鷹からの9機の九九式艦爆がヘンダーソン飛行場上空に出現した。周囲の艦船はすぐさま対空砲火を打ち上げ、ゼイリンが至近弾の水を被った程度で小破以上の被害はなかった。攻撃が終わると、輸送艦はルンガ岬に戻り揚陸を再開した。 1時間余り後の10時50分、アトランタは別の日本の航空部隊に関する情報を受信した。15分後、再び3隻の輸送艦をアトランタと駆逐艦で護衛し北方に避退させた直後、ラバウルから飛来した一式陸上攻撃機27機が緩いV字陣形でエスペランス岬方面から来襲した。駆逐艦が対空射撃を行ったものの、これら一式陸攻は艦船攻撃が目的ではなく、爆弾をヘンダーソン飛行場に投下して去っていった。第62.4任務群は一式陸攻が去っていったのを確認してから揚陸作業を再開した。 いまだルンガ岬沖にあったアトランタは、ダニエル・J・キャラハン少将が率いる第67任務部隊の指揮下に入ることとなった。13時10分ごろ、アトランタは25機の日本機が50分以内に到達するという報告を受け、戦闘配置を令してこの日3度目の空襲に備えた。6分以内に、アトランタや他の護衛艦艇は輸送艦で構成された第67.1任務群の周囲に集まり、2つのグループが15ノットの速力で北に向かった。14時10分、25機の一式陸攻を発見。一式陸攻はフロリダ諸島上空で二手に分かれた後、8メートルから16メートルの超低空から攻撃を仕掛けてきた。軽巡洋艦ジュノー (USS Juneau, CL-52) が14時12分に反撃を開始し、アトランタも1分後に射撃を開始した。アトランタはサンフランシスコと駆逐艦ブキャナン (USS Buchanan, DD-484) の間を通過し魚雷を投下した2機の一式陸攻を、魚雷投下直後に撃墜したと主張した。最後まで残っていた一式陸攻が去った後揚陸作業を再開したが、一連の攻撃の最中、撃墜された1機の一式陸攻がサンフランシスコの後部構造物に体当たりして損傷を与えていた。
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船団護衛
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1943年8月11日、若宮は玉野から呉に移動。同地で建造時の不備が見つかったため、その修正作業を受ける。19日、呉から佐伯に移動。23日、佐伯から呉に移動。25日、若宮は呉防備戦隊から除かれ、駆逐艦春風が編入された。若宮は南西方面艦隊隷下の第一海上護衛隊に編入される。その後門司に移動し、31日に輸送船7隻からなる第192船団を特設砲艦北京丸(大連汽船、2,266トン)と共に護衛して門司を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。9月4日0700、船団は馬公に到着する。 9月5日1830、若宮は馬公を出港し、6日0940に基隆に到着。9日0900、マ04船団を護衛して基隆を出港。12日1400、船団は門司に到着。21日1600、特設運送船国島丸(飯野海運、4,083トン)他輸送船9隻からなる第199船団を護衛して門司を出港。26日1400、船団は高雄に到着。30日1715、若宮は高雄を出港して対潜掃討を行う。10月1日1850、高雄に到着。 10月3日1830、陸軍輸送船妙義丸(東亜海運、4,021トン)他輸送船3隻からなるC船団を護衛して高雄を出港。6日1550に船団はマニラに到着。8日0930、若宮はマニラを出港して対潜掃討を行う。10日1100、マニラに到着。12日0945、陸軍輸送船りま丸(日本郵船、6,989トン)他輸送船2隻からなるD船団を護衛してマニラを出港。20日1100、船団は昭南に到着。22日1300、特設運送船隆興丸(太洋興業、2,831トン)他輸送船4隻からなる第630船団を護衛して昭南を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。25日1230、先行船団はサンジャックに到着。1330、若宮はサンジャックを出港し、1700にサイゴンに到着。26日、第630船団の残りがサンジャックに到着。27日1600、若宮はサイゴンを出港し、1900にサンジャックに到着。28日1600、1A型戦時標準貨物船旭山丸(宮地汽船、6,493トン)他輸送船12隻からなる第437船団を護衛してサンジャックを出港。29日1900、カムラン湾に到着。30日1500、カムラン湾を出港。出港直後、船団は2つに分割され、若宮は先行船団を護衛する。11月6日2000、船団は高雄に到着した。 11月9日0930、若宮は高雄を出港し対潜掃討を行う。1800、高雄に到着。11日0740、特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)他輸送船4隻からなるヒ14船団を護衛して高雄を出港。13日、大長塗山に到着。14日0930、大長塗山を出港。15日、海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎海軍大将)の新編にともない、第一海上護衛隊も同部隊の麾下となった。16日、船団は門司に到着。
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船団護衛
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2月中句、御蔵島沖へ対潜掃討のために出撃。荒天の中、同海域において敵潜水艦を探知し、爆雷攻撃を行うが戦果は確認できなかった。2月16日、長浦に停泊中空襲を受け、対空戦闘を行なった。2月26日、第九青函丸(鉄道省、2,850トン)を護衛して出港。2隻は潜水艦が行動しにくい浅瀬を航行していたが、27日2002、千葉県勝浦沖で第九青函丸は濃霧により暗礁に乗り上げ、2250に沈没。四阪は乗組員の救助を行った後、同日中に館山に到着。3月1日、館山を出港し、2日に横須賀に到着。同日、伊豆諸島方面へ対潜掃討のため横須賀を出港するが、戦果を確認できなかった。四阪は八丈島に寄港し、8日に出港。10日に横須賀に到着した。 20日、貨物船九州丸(尼崎汽船、632トン)、1F型戦時標準貨物船東光丸(日本近海汽船、1,530トン)、冷凍船第一南陽丸(所属不明、451トン)からなる第3320船団を特設駆潜艇第二関丸(西大洋漁業、359トン)と共に護衛して横須賀を出港し、21日に八丈島に到着。24日、第一南陽丸単独からなる船団を護衛して八丈島を出港し、25日に館山に到着。その後横須賀に移動する。4月1日、陸軍の要請により横須賀を出港して東京湾口の対潜哨戒を行い、2日に下田に到着。3日、1E型戦時標準貨物船第六雲洋丸(中村汽船、830トン)を護衛して下田を出港し、同日中に八丈島に到着。4日、第六雲洋丸を護衛して八丈島を出港し、同日中に下田に到着。5日、東光丸を護衛して下田を出港し、同日中に八丈島に到着。7日、1F型戦時標準貨物船第二日航丸(日の丸航運、490トン)を第74号海防艦と共に護衛して八丈島を出港。同日2030、第二日航丸が推進機を脱落したため、同船を曳航する。8日、館山に到着。9日、館山を出港し、10日に横須賀に到着。12日、横須賀と横浜の間を往復。13日、横須賀を出港し、東京湾口で対潜掃討を行ったが、戦果は確認できなかった。16日、横須賀に到着。21日から5月6日まで、横須賀海軍工廠で機関修理を受ける。16日、横須賀鎮守府長官戸塚道太郎中将ほかを便乗させて横須賀を出港し、三浦半島西方沖で特攻演習に参加する。17日、横須賀空襲の情報により浦賀に向かい、戸塚長官を降ろす。18日、浦賀から横須賀へ移動。20日、横須賀海軍工廠で機関修理を受ける。入渠中の29日に横浜大空襲により戦闘配置。 6月上句、近接中の敵艦隊撃滅のために伊豆七島方面に出撃するも会敵せず、敵駆逐艦の砲撃を受けて大破炎上中の輸送船の救援に向かい、横浜へ曳航。その後横浜から横須賀へ移動する。24日、特務艦宗谷、特設砲艦神津丸(大阪商船、2,721トン)、2A型戦時標準貨物船永観丸(日本郵船、6,903トン)からなる第1624船団を第51号駆潜艇と共に護衛して横須賀を出港。26日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯39度25分 東経142度04分 / 北緯39.417度 東経142.067度 / 39.417; 142.067の岩手県大釜崎東方3.7km地点付近で米潜パーチー(USS Parche, SS-384)に発見される。1028、パーチーは神津丸へ向け魚雷を発射。神津丸の右舷中央部に魚雷2本が命中し、同船は轟沈した。続けて、1050にパーチーは永観丸へ向け魚雷を発射。永観丸の右舷2番船倉に魚雷が命中し、左舷に20度傾斜し船首が沈下した同船は近くのオーゴモリ礁に座礁。修理中の14日に暴風雨により船体切断の可能性が高まったため放棄された。宗谷は脱出して山田湾内に避難し、護衛艦は反撃を開始した。パーチーはマーク27音響探知式魚雷を第51号駆潜艇に対し発射したが、命中しなかった。そのためパーチーは深度90mに移動したが、宗谷と四阪、第51号駆潜艇が投下した67発もの爆雷の炸裂により浸水し、艦首を下にして安全深度を超える165mにまで沈んだ。ジャイロコンパスが故障し電動機も水を被ったが、これ以上の被害は受けなかった。四阪は翌日まで宗谷とともに反復攻撃を行ったところ海面に多量の油湧出を確認し撃沈と判断したが、実際には脱出されていた。宗谷を無事函館まで送り届けた後反転し、7月2日に横須賀に帰投。4日、横須賀空襲により長浦において対空戦闘を行う。15日、四阪は横須賀鎮守府部隊第一特攻戦隊に編入される。 8月上句、四阪は江の島沖で機雷敷設の仮浮標の設置作業を行い、8月5日に第37号海防艦と共に九十九里浜沖で機雷敷設隊の護衛を行う。6日、敷設艇巨済を護衛して横須賀に向かう途中、北緯34度52分 東経139度58分 / 北緯34.867度 東経139.967度 / 34.867; 139.967の地点で米第58任務部隊の空襲を受けるが、被害はなかった。 8月15日の終戦時は東京湾口で対潜哨戒中で、同日中に横須賀に到着。16日に「米艦が発砲しつつ湾口に向うを認めたる時は、断乎これを撃滅すべし」の命令を受け湾口へ向け出港。17日に横須賀に到着。24日、東京湾へ向かう米艦隊への派遣軍使を乗せ横須賀を出港し、伊豆大島東方沖へ向かうが、暴風雨のため米艦隊の入港は延期となったため横須賀へ戻った。翌25日、再度軍使搭乗の要請を受けるも機関故障により出港できなかった。結局、この任務は駆逐艦初桜が行うこととなり、初桜は27日に相模湾で米艦隊と会合した。 11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。終戦までの乗組員の戦死者は0人だった。
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船団護衛
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1945年(昭和20年)2月27日、竹生は佐世保を出港し、28日に呉に到着。呉海軍工廠に入渠し修理と整備を行う。この時に13号電探を設置。3月2日、呉から門司へ回航。12日から15日にかけて、門司と六連島の間を1往復した。16日0600、門司を出港し、0700に六連に到着。0900、特設運送艦聖川丸(川崎汽船、6,862トン)、特設運送船辰春丸(辰馬汽船、6,345トン)、箱崎丸(日本郵船、10,413トン)他輸送船1隻からなるモタ43船団を第40号海防艦、第102号海防艦、第106号海防艦と共に護衛して六連を出港。19日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度07分 東経122度05分 / 北緯33.117度 東経122.083度 / 33.117; 122.083の上海北北東225km地点付近でアメリカ潜水艦バラオ(USS Balao, SS-285)に発見される。0258、バラオは艦首と艦尾の両方の発射管から3つの目標に向けて魚雷を発射。まず辰春丸に1本が命中。辰春丸は大破したものの沈むことはなかった。次に筥崎丸に2本が命中。筥崎丸は搭載していたドラム缶詰めガソリン、弾薬、魚雷が誘爆して船尾が吹き飛び、急速に沈没したが、場所が水深15メートルの浅海だったため船体前部は22分の間炎上した後沈没し、上部構造物を水面上に出した形で着底した。別の魚雷は第40号海防艦の至近を通過していったが、命中はしなかった。第106号海防艦が船団を誘導し1933に泗礁山泊地に到着。竹生以下残りの護衛は爆雷攻撃を行ったもののバラオに損害はなく、生存者救助の後21日0800に泗礁山泊地に到着した。損傷した辰春丸を分離した船団は22日0300に泗礁山泊地を出港。23日、馬祖山に寄港した後24日1603に福瑤門に到着。25日1600に出港し、26日1700に基隆に到着した。荷役の後、モタ43船団はそのまま復航のタモ53船団として編制された。 4月1日0615、船団は基隆を出港。東大島沖、温洲湾外、泗礁山泊地、青島、石渡湾を経由して門司へ向かった。9日、北緯36度46分 東経123度36分 / 北緯36.767度 東経123.600度 / 36.767; 123.600の山東半島高角南東100km地点付近で、アメリカ潜水艦ティランテ(USS Tirante, SS-420)に発見される。この頃、アメリカ海軍の情報部は日本の暗号を解読し、日本軍の動静をほぼ予測しており、この情報に応じてティランテは潜航して船団を待ち伏せていた。ティランテは輸送船2隻を標的に選び、それぞれに3本の魚雷を発射した。魚雷は聖川丸には命中しなかったが、日光丸の船首と機関室に1本ずつ命中し、日光丸は沈没した。この時、輸送船2隻には2隻には台湾産の砂糖や帰国する引揚者、陸軍兵士および上海からの水兵などを乗せていた。日光丸が沈没すると共に、竹生以下護衛艦は反撃に移った。逆襲を防ぐためティランテは護衛艦の1隻に対して新型のマーク27誘導魚雷(英語版)を発射した。魚雷は第102号海防艦の操舵機に命中し、同艦は航行不能に陥った。竹生は日光丸の生存者救助の後第102号海防艦を曳航した。船団は格列飛島泊地、鞍島群島、麗水湾を経由して12日に釜山に到着。13日に出港し、同日六連に到着した。25日、竹生は第二十二海防隊に編入され、隊内区分第三小隊に配置。以後黄海、日本海で船団護衛と対潜掃蕩に従事。 7月5日1710、練習巡洋艦鹿島、大東、第8号海防艦、第52号海防艦と共に舞鶴に到着。22日1900、鹿島と高根、鵜来と共に舞鶴を出港するが、後に鵜来と共に鹿島、高根と分離した。8月には樽内50船団の護衛を行い、船団は14日に新潟に到着。8月15日の終戦時は新潟に所在。25日、佐世保鎮守府第一予備海防艦に定められる。11月30日、海軍省の廃止に伴い除籍された。
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船団護衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 04:41 UTC 版)
30日0900、2A型戦時標準貨物船江ノ浦丸(日本郵船、6,968トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカーの延長丸(日本郵船、6,888トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカーの延元丸(日本郵船、6,890トン)等輸送船15隻で編成されたミ29船団を駆逐艦朝顔、海防艦干珠、新南、第41号海防艦、第66号海防艦、第223号駆潜特務艇と共に護衛して門司を出港。しかし、12月1日深夜、船団は米潜シーデビル(USS Sea Devil, SS-400)にレーダーにより発見される。翌2日0414、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯30度24分 東経128度17分 / 北緯30.400度 東経128.283度 / 30.400; 128.283の屋久島西方約150キロ地点付近で、シーデビルは魚雷4本を中型貨物船に向けて発射したものの、命中しなかった。0424、シーデビルは魚雷2本を大型貨物船に向けて発射。40秒後、海軍給糧艦間宮の設計の基となった陸軍輸送船はわい丸(南洋海運、9,467トン)の2番船倉に魚雷1本が命中。魚雷命中により搭載していた弾薬とガソリンが誘爆して大爆発したはわい丸はわずか40秒で沈没した。0429、シーデビルは距離1,200メートルにある大型貨物船に対して、艦尾発射管から4本の魚雷を発射。0430、2AT型戦時応急タンカー安芸川丸(川崎汽船、6,895トン)の4番船倉に第1弾が、その30秒後に3番船倉に第2弾が命中。0520、安芸川丸は4番船倉の被雷部で船体が折損し、0607に沈没した。このとき沈没した輸送船には読売ジャイアンツの名投手、沢村栄治が乗船しており、この12月2日の雷撃で戦死している。『日本商船隊戦時遭難史』によれば、この日に沈没した輸送船は安芸川丸とはわい丸だけであり、沢村はそのどちらかに乗船していたと見られている。はわい丸にはシンガポールへ進出する海上挺進第22戦隊60名、および震洋60隻、陸軍車両50両、弾薬・ドラム缶詰めのガソリン等軍需物資、満州からマニラに進出する第23師団の一部、シンガポールへ進出する海上挺進第22戦隊および同戦隊基地第22大隊将兵、計1843名、船砲隊及び警戒隊計83名、船長以下船員148名、合計2,074名が乗船しており、全員戦死した。安芸川丸でも陸軍高射砲隊409名、便乗者16名、鋼材、開発資材各750トンを乗せており、陸軍兵士244名、警戒隊7名、便乗者1名、船員18名が戦死したほか、救命ボートで脱出して諏訪之瀬島に漂着した生存者79名のうち、2名が死亡した。また、貨物船伯剌西爾丸(大洋興業、5,860トン)が自らが投下した爆雷の炸裂により損傷する。船団はシーデビルによる安芸川丸とはわい丸の撃沈で支離滅裂となってしまう。海軍配当船で2AT型戦時応急タンカーの神祐丸(大阪商船、6,956トン)は日本本土へ反転。損傷した伯剌西爾丸は基隆へ、江ノ浦丸は大陸へと向かう。和浦丸(三菱汽船、6,804トン)と護衛の朝顔、それを追う貨物船くらいど丸(南洋海運、5,497トン)、1D型戦時標準貨物船第十一星丸(山下汽船、1,944トン)と護衛の生名の2つの小船団は高雄に向かったが、途中空襲を受けて生名が損傷する。3日に和浦丸以下の船団が、6日にくらいど丸以下の船団が高雄に到着した。高雄到着前の5日、第五艦隊は連合艦隊南西方面艦隊に編入される。 14日0500、生名は干珠、第41号海防艦と共に貨物船裕山丸(興国汽船、6,038トン)、同乾瑞丸(乾汽船、4,156トン)他輸送船2隻からなるタマ36船団を護衛して高雄を出港。22日、乾瑞丸が機関故障により後落。同船は船団を追及中の23日1130、北緯16度50分 東経120度18分 / 北緯16.833度 東経120.300度 / 16.833; 120.300のダリガヨス岬西方4km地点付近で米潜ブレニー(USS Blenny, SS-324)の発射した魚雷4本が直撃し沈没した。同日、船団は北サンフェルナンドに到着。25日、第二十一海防隊は海上護衛総司令部第一護衛艦隊に編入される。 生名はマニラに移動。日付が29日に変わった頃、海防艦干珠、特設駆潜艇第十一昭南丸(日本海洋漁業統制、350トン)と共に1B型戦時標準貨物船明隆丸(明治海運、4,739トン)、貨客船菱形丸(拿捕船/大阪商船委託、2,832トン/元米船Bisayas)からなるマタ38A船団を護衛してマニラを出港。31日1600、船団は北サンフェルナンドに到着。護衛部隊が第66号海防艦、第138号海防艦に交代することになり、3隻は船団から分離した。 詳細は「ヒ85船団#ルソン島分遣船団」を参照 生名と干珠はマタ40船団の護衛に加わり、1945年1月1日0345に北サンフェルナンドを出港し高雄へ向かった。しかし、3日に船団は空襲を受け、陸軍特殊船神州丸(陸軍省、8,160トン)が被弾し航行不能となったため放棄され、夜に米潜水艦アスプロ(USS Aspro, SS-309)の雷撃で撃沈された。また、陸軍特殊船吉備津丸(日本郵船、9,574トン)も直撃弾を受けて中破する。日付が4日に変わる頃、船団は高雄に到着した。4日0315、生名は海防艦干珠、能美と共に高雄を出港。途中空襲で損傷したものの、同日中に南澳島に到着。5日1300、3隻は南澳島を出港し、6日1140に高雄に到着。同日から18日まで応急修理を受ける。 19日、特設運送船辰和丸(辰馬汽船、6,335トン)、貨物船羅津丸(大連汽船、5,462トン)、海軍徴用船備後丸(日本郵船、4,643トン)他輸送船4隻からなるタモ38船団を海防艦第26号海防艦、第39号海防艦、第112号海防艦と共に護衛して高雄を出港。20日1742、南日島泊地に到着。21日0730、南日島泊地を出港し、1930に福州沖に到着し仮泊。22日0700、船団は出発し、1600に北緯27度02分 東経120度27分 / 北緯27.033度 東経120.450度 / 27.033; 120.450の福州北東の浅海に到着し、同地で貨客船サマラン丸(南洋海運、4,013トン)、辰春丸、海軍徴用船鐡洋丸(大阪商船、2,130トン)他輸送船11隻からなるモタ32船団と、護衛の駆逐艦汐風、海防艦満珠、第31号海防艦、第132号海防艦、第144号海防艦、第19号駆潜艇、第57号駆潜艇が来着。1月22日深夜から1月23日早朝にかけて、米潜バーブがモタ32船団に接近。0402、バーブは浮上状態で魚雷を4本発射し、反転してさらに魚雷を4本発射。魚雷は陸軍輸送船大恭丸(大阪商船、5,244トン)に3本が命中し、同船は沈没。バーブは機雷の敷設された水域を浮上したまま高速で後退した。0600、両船団は出発。28日2000、タモ38船団は門司に到着。 1月31日0630、輸送船3隻からなるモタ34船団を第26号海防艦、第67号海防艦と共に護衛して門司を出港。2月3日2100、泗礁山泊地に到着。4日0400、泗礁山泊地を出港し、1820に温州沖に到着し仮泊。5日1100、温州沖を出発し、1730に福州沖に到着して仮泊。6日0300、福州沖を出発し、1830に船団は基隆に到着。9日0700、陸軍特殊船日向丸(日産汽船、9,587トン)、同摂津丸(大阪商船、9,670トン)からなるタモ41船団を第26号海防艦、第67号海防艦と共に護衛して基隆を出港。1900、馬祖島に到着。10日0700、馬祖島を出港し、温州湾に移動。11日、温州湾を出港し、1930に泗礁山泊地に到着。12日0230、泗礁山泊地を出港し、14日1815に六連島に到着。16日0630、生名は六連島を出港し、1400に佐世保に到着。同日から27日まで佐世保海軍工廠で修理を受ける。 28日0730、生名は佐世保を出港し、1730に門司に到着する。3月1日0800、貨物船生駒山丸(三井船舶、3,173トン)、2D型戦時標準船愛山丸(宮地汽船、2,221トン)、同道志丸(日本郵船、2,275トン)他輸送船4隻からなるモタ40船団を第26号海防艦、第41号海防艦、第17号掃海艇、第19号駆潜艇と共に護衛して六連島を出港。途中道志丸が舟山に向かうため分離。9日2010、船団は基隆に到着。16日0102、生駒山丸、愛山丸、2D型戦時標準船喜多方丸(会陽汽船、2,216トン)他輸送船1隻からなるタモ49船団を第41号海防艦、第17号掃海艇と共に護衛して基隆を出港。同日、北緯29度09分 東経122度07分 / 北緯29.150度 東経122.117度 / 29.150; 122.117の地点で船団は空襲を受け、喜多方丸が損傷。17日、生駒山丸が機関故障を起こして後落。荒天により、船団は白犬島に向かうこととなったが、その途中、北緯25度58分 東経119度58分 / 北緯25.967度 東経119.967度 / 25.967; 119.967の地点で米潜スポット(USS Spot, SS-413)に発見される。0100頃、スポットは生駒山丸へ向け魚雷を発射。魚雷は生駒山丸の1番船倉に命中。積荷のブタノールに引火し炎上する生駒山丸は馬祖島に座礁して修理を行ったが、3月26日にアメリカ陸軍航空隊の爆撃を受けて放棄された。0335、スポットは北緯25度33分 東経120度10分 / 北緯25.550度 東経120.167度 / 25.550; 120.167の牛山島東方24km地点付近で貨物船南京丸(大阪商船、3,005トン)に対して魚雷を発射。魚雷が命中した南京丸は瞬時に大爆発を起こして轟沈し、乗船者503名全員が戦死した。スポットは一連の攻撃で魚雷全弾を消費。攻撃は悪天候の中浅海で行われ、スポットは浅海で潜航する不利を嫌って浮上し離脱を図ったものの、反撃してきた第17号掃海艇を回避することができず、第17号掃海艇は3,800mまで接近して砲撃を始めた。荒れる海の中、スポットは艦載砲による反撃を始めた。雨で甲板が濡れて難渋したものの、幸運にも5インチ砲弾が第17号掃海艇の前方艦載砲真下に命中。スポットは、一時は90メートルまで接近した第17号掃海艇の攻撃をかろうじて回避した。スポットは砲手を回収し潜航を始めた。護衛艦は少数の爆雷を投下したが、スポットは損傷を負うことはなかった。同日1308、船団は馬祖島に到着。19日、船団は馬祖島を出港し、20日1810に韮山列島に到着。21日、韮山列島を出港し、22日に泗礁山泊地に到着。23日1000に泗礁山泊地を出港し、29日0920に油谷湾に到着。その後出港し、31日に門司に到着した。
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船団護衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 18:34 UTC 版)
船団護衛とは戦時において非戦闘目的の船舶の航行を海軍・空軍部隊によって護衛する作戦行動である。近世以降、戦時国際法の中立法規によって中立国の軍艦の護衛の下に置かれた船舶は臨検免除を主張することが可能であった。 第一次世界大戦においては船団護衛の利害について議論があったが、ドイツが交戦国だけでなく中立国の商船へも無制限潜水艦戦を行うことを宣言したために船団護衛は不可欠なものとなり、その護衛制度は発達とともに有効性が後の戦争で実証された。 船団の商船は指定されたとおりに陣形を形成して護衛艦はその先頭と両翼に配置される。潜水艦の攻撃に対処できる駆逐艦などが有効であるが、航空母艦による航空援護も現在では行うことができる。 船舶護衛は第一次世界大戦、第二次世界大戦においてしばしば行われた。
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