船団護衛とは? わかりやすく解説

護送船団

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護送船団(ごそうせんだん)または護衛船団(ごえいせんだん)、船団護衛(せんだんごえい)とは、軍艦航空機や武装舟艇などに護衛されて航行する輸送船商船の集団のことである。勢力からの妨害を排除し、味方勢力による海上輸送の維持を目的としている。戦時下において通商破壊に対抗するために生み出された戦法である。


  1. ^ 大井(2001)、326-328頁。
  2. ^ 大井(2001)、72頁。
  3. ^ 大井(2001)、76-83頁。
  4. ^ 大井(2001)、210頁。
  5. ^ a b ブリタニカ国際百科事典 小項目電子辞書版
  6. ^ a b c d e f 大井(2001)、211-213頁。
  7. ^ 大井(2001)、184頁。
  8. ^ 大井(2001)、379-380頁。


「護送船団」の続きの解説一覧

船団護衛

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屋久 (海防艦)」の記事における「船団護衛」の解説

1944年昭和19年12月5日、屋久は連合艦隊南西方面艦隊第五艦隊第三十一戦隊21海防隊に編入23日陸軍輸送船めるぼるん丸(大阪商船、5,438トン)他輸送船1隻からなるモタ29船団を第26海防艦、第60海防艦、第205海防艦と共に護衛して門司出港同日、第26海防艦船団から分離し門司戻った同日、屋久は連合艦隊編入された。31日船団高雄到着詳細は「ヒ87船団」を参照 1945年昭和20年1月3日、屋久は輸送船9隻からなるタア01船団駆逐艦朝顔海防艦新南と共に護衛して高雄出港し5日厦門到着6日新南と共に厦門出港し7日左営到着10日ヒ87船団護衛し左営発。13日香港到着20日、ヒ87B船団護衛し香港出港21日新南海南島南口で触礁したため香港積載した託送品と便乗者の移載を受ける。22日船団海南島南口出港途中屋久は船団から分離し27日にサンパット湾に到着託送品と便乗者を降ろした詳細は「南号作戦」を参照 2月4日、屋久はサンパット湾を出港し同日中にヒ88D船団合流そのまま船団護衛を行う。6日深夜船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0631分 東経10612分 / 北緯6.517度 東経106.200度 / 6.517; 106.200のサイゴン南方470km地点付近アメリカ潜水艦パンパニト(USS Pampanito, SS-383)に発見される。2305、パンパニトは魚雷発射し海軍配当延元丸(日本郵船、6,890トン)の右舷機関室命中同船は2分で沈没した7日船団北緯0658東経10608分 / 北緯6.967度 東経106.133度 / 6.967; 106.133の地点でパンパニトとウルフパック組んでいたアメリカ潜水艦ガヴィナ(USS Guavina, SS-362)に発見される。0454、ガヴィナは魚雷6本を発射し海軍配当船大暁丸大阪商船、6,892トン)の右舷3番船倉、1番船倉、2番船倉の順に3本命中同船は5分で沈没した8日船団サイゴン到着し同地解散となった9日、屋久はサイゴン出港し13日シンガポール到着16日、屋久はヒ88H船団護衛してシンガポール出港途中で陸軍油槽船南丸(拿捕船/飯野海運委託、5,542トン/旧英船War Sirdar)がサンジャックに向かうため船団から分離22日昼前船団北緯11度30東経10906分 / 北緯11.500度 東経109.100度 / 11.500; 109.100のインドシナ半島ファンラン湾口アメリカ潜水艦ベクーナ(USS Becuna, SS-319)に発見される。1045、ベクーナは魚雷4本を発射し、うち1本が海軍配当船日翼丸(日産汽船、1,943トン)の左舷機関室命中被雷した同船右舷傾斜した沈没。屋久以下護衛艦爆雷65発を投下したが、ベクーナに損害はなかった。同日1900船団ナトラン到着し23日出港同日船団北緯12度42東経10930分 / 北緯12.700度 東経109.500度 / 12.700; 109.500のインドシナ半島バレラ岬沖南方20km地点付近アメリカ潜水艦ハンマーヘッド(USS Hammerhead, SS-364)に発見される。1210、ハンマーヘッド魚雷4本を発射。うち2本が屋久の右舷艦首立て続け命中し、屋久は轟沈した。25日船団ツーラン到着した海防艦長三井少佐下乗134名が戦死4月10日、屋久は鵜来型海防艦から削除され帝国海防艦籍から除かれた。屋久の艦名アメリカから貸与され海上自衛隊掃海艇やくしま」(元YMS-135級特務機動掃海艇オスプレイ(USS Osprey, AMS-28))に引き継がれた。

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船団護衛

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アトランタ (軽巡洋艦)」の記事における「船団護衛」の解説

アトランタ引き続きスコット少将旗艦として行動し、4隻の駆逐艦とともに輸送艦ゼイリン (USS Zeilin, APA-3) 、リブラ (USS Libra, AK-53) およびベテルギウス (USS Betelgeuse, AK-28) を護衛してガダルカナル島向かった11月12日アトランタ駆逐艦は第62.4任務群を編成してルンガ岬到着し輸送艦部隊物資揚陸した。 9時5分、任務群は「北西方向から9機の爆撃機12機の戦闘機向かっており、9時30分ごろに到達するであろう」との報告を受け、3隻の輸送艦駆逐艦護衛した上で北方避退させた。15分後、空母飛鷹からの9機の九九式艦爆ヘンダーソン飛行場上空出現した周囲艦船すぐさま対空砲火打ち上げゼイリン至近弾の被った程度小破上の被害はなかった。攻撃が終わると、輸送艦ルンガ岬戻り揚陸再開した1時間余り後の10時50分、アトランタ別の日本航空部隊に関する情報受信した15分後、再び3隻の輸送艦アトランタ駆逐艦護衛し北方避退させた直後ラバウルから飛来し一式陸上攻撃機27機が緩いV字陣形エスペランス岬方面から来襲した。駆逐艦対空射撃行ったものの、これら一式陸攻艦船攻撃目的ではなく爆弾ヘンダーソン飛行場投下して去っていった。第62.4任務群は一式陸攻去っていったのを確認してから揚陸作業再開した。 いまだルンガ岬にあったアトランタは、ダニエル・J・キャラハン少将率いる第67任務部隊指揮下に入ることとなった1310分ごろ、アトランタ25機の日本機が50以内到達するという報告を受け、戦闘配置令してこの日3度目空襲備えた6分以内に、アトランタや他の護衛艦艇は輸送艦構成された第67.1任務群の周囲集まり2つグループ15ノット速力で北に向かった14時10分、25機の一式陸攻発見一式陸攻フロリダ諸島上空二手分かれた後、8メートルから16メートルの超低空から攻撃仕掛けてきた。軽巡洋艦ジュノー (USS Juneau, CL-52) が14時12分に反撃開始しアトランタも1分後に射撃開始したアトランタサンフランシスコ駆逐艦ブキャナン (USS Buchanan, DD-484) の間を通過し魚雷投下した2機の一式陸攻を、魚雷投下直後撃墜した主張した最後まで残っていた一式陸攻去った揚陸作業再開したが、一連の攻撃最中撃墜された1機の一式陸攻サンフランシスコ後部構造物体当たりし損傷与えていた。

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船団護衛

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若宮 (海防艦)」の記事における「船団護衛」の解説

1943年8月11日若宮玉野から呉に移動同地建造時不備見つかったため、その修正作業を受ける。19日、呉から佐伯移動23日佐伯から呉に移動25日若宮は呉防備戦隊から除かれ駆逐艦春風編入された。若宮南西方面艦隊隷下第一海上護衛隊編入されるその後門司移動し31日輸送船7隻からなる192船団特設砲艦北京丸(大連汽船、2,266トンと共に護衛して門司出港出港直後船団2つ分割され若宮先行船団護衛する9月4日0700、船団馬公到着する9月5日1830若宮馬公出港し6日0940に基隆到着9日0900、マ04船団護衛して基隆出港12日1400船団門司到着21日1600特設運送船国島丸(飯野海運、4,083トン)他輸送船9隻からなる199船団護衛して門司出港26日1400船団高雄到着30日1715、若宮高雄出港して対潜掃討を行う。10月1日1850、高雄到着10月3日1830陸軍輸送船妙義丸(東亜海運、4,021トン)他輸送船3隻からなるC船団護衛して高雄出港6日1550に船団マニラ到着8日0930若宮マニラ出港して対潜掃討を行う。10日1100マニラ到着12日0945、陸軍輸送船りま丸日本郵船、6,989トン)他輸送船2隻からなるD船団護衛してマニラ出港20日1100船団昭南到着22日1300特設運送船隆興丸(太洋興業、2,831トン)他輸送船4隻からなる630船団護衛して昭南出港出港直後船団2つ分割され若宮先行船団護衛する25日1230、先行船団サンジャック到着。1330、若宮サンジャック出港し1700サイゴン到着26日、第630船団残りサンジャック到着27日1600若宮サイゴン出港し1900サンジャック到着28日16001A型戦時標準貨物船旭山丸(宮地汽船、6,493トン)他輸送船12からなる437船団護衛してサンジャック出港29日1900カムラン湾到着30日1500カムラン湾出港出港直後船団2つ分割され若宮先行船団護衛する11月6日2000船団高雄到着した11月9日0930若宮高雄出港し対潜掃討を行う。1800高雄到着11日0740、特設運送船北陸丸(大阪商船、8,365トン)他輸送船4隻からなる14船団護衛して高雄出港13日大長塗山に到着14日0930大長塗山を出港15日海上護衛総司令部司令長官及川古志郎海軍大将)の新編にともない第一海上護衛隊も同部隊麾下となった16日船団門司到着

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船団護衛

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四阪 (海防艦)」の記事における「船団護衛」の解説

2月中句、御蔵島沖へ対潜掃討のために出撃荒天の中、同海域において敵潜水艦探知し爆雷攻撃を行うが戦果確認できなかった。2月16日長浦停泊中空襲を受け、対空戦闘行なった2月26日第九青函丸鉄道省、2,850トン)を護衛して出港。2隻は潜水艦が行しにくい浅瀬航行していたが、27日2002千葉県勝浦沖で第九青函丸濃霧により暗礁に乗り上げ、2250に沈没。四阪は乗組員救助行った後、同日中に館山到着3月1日館山出港し2日横須賀到着同日伊豆諸島方面対潜掃討のため横須賀出港するが、戦果確認できなかった。四阪は八丈島寄港し8日出港10日横須賀到着した20日貨物船九州丸(尼崎汽船、632トン)、1F型戦時標準貨物船東光丸日本近海汽船、1,530トン)、冷凍船第一南陽丸(所属不明451トンからなる第3320船団特設駆潜艇第二関丸(西大漁業359トンと共に護衛して横須賀出港し21日八丈島到着24日第一南陽単独からなる船団護衛して八丈島出港し25日館山到着その後横須賀移動する4月1日陸軍要請により横須賀出港して東京湾口の対潜哨戒行い2日下田到着3日1E型戦時標準貨物船第六洋丸(中村汽船830トン)を護衛して下田出港し同日中に八丈島到着4日第六洋丸を護衛して八丈島出港し同日中に下田到着5日東光丸護衛して下田出港し同日中に八丈島到着7日1F型戦時標準貨物船第二日航丸(日の丸航運、490トン)を第74海防艦と共に護衛して八丈島出港同日2030、第二日航丸が推進機を脱落したため、同船曳航する。8日館山到着9日館山出港し10日横須賀到着12日横須賀横浜の間を往復13日横須賀出港し東京湾口で対潜掃討行ったが、戦果確認できなかった。16日横須賀到着21日から5月6日まで、横須賀海軍工廠機関修理を受ける。16日横須賀鎮守府長官戸塚道太郎中将ほかを便乗させて横須賀出港し三浦半島西方沖で特攻演習参加する17日横須賀空襲情報により浦賀向かい戸塚長官降ろす。18日浦賀から横須賀移動20日横須賀海軍工廠機関修理を受ける。入渠中の29日横浜大空襲により戦闘配置6月上句、近接中の敵艦撃滅のために伊豆七島方面出撃する会敵せず、敵駆逐艦砲撃受けて大破炎上中の輸送船救援向かい横浜曳航その後横浜から横須賀移動する24日特務艦宗谷特設砲艦津丸大阪商船、2,721トン)、2A型戦時標準貨物船永観丸(日本郵船、6,903トンからなる第1624船団を第51号駆潜艇と共に護衛して横須賀出港26日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3925東経14204分 / 北緯39.417度 東経142.067度 / 39.417; 142.067の岩手県大釜崎東方3.7km地点付近で米潜パーチー(USS Parche, SS-384)に発見される。1028、パーチーは神津丸へ向け魚雷発射。神津丸右舷中央部魚雷2本が命中し同船轟沈した。続けて、1050にパーチーは永観丸へ向け魚雷発射永観丸の右舷2番船倉魚雷命中し左舷20傾斜し船首沈下した同船近くのオーゴモリ礁に座礁修理中の14日暴風雨により船体切断可能性高まったため放棄された。宗谷脱出して山田湾内に避難し護衛艦反撃開始した。パーチーはマーク27音響探知魚雷を第51号駆潜艇対し発射したが、命中しなかった。そのためパーチーは深度90mに移動したが、宗谷と四阪、第51号駆潜艇投下した67発もの爆雷炸裂により浸水し艦首を下にして安全深度超える165mにまで沈んだジャイロコンパス故障し電動機被ったが、これ以上被害は受けなかった。四阪は翌日まで宗谷とともに反復攻撃行ったところ海面多量の油湧出確認し撃沈判断したが、実際に脱出されていた。宗谷を無事函館まで送り届けた反転し7月2日横須賀帰投4日横須賀空襲により長浦において対空戦闘を行う。15日、四阪は横須賀鎮守府部隊第一特攻戦隊編入される8月上句、四阪は江の島沖で機雷敷設の仮浮標設置作業行い8月5日に第37海防艦と共に九十九里浜沖で機雷敷設隊の護衛を行う。6日敷設艇巨済護衛して横須賀に向かう途中北緯3452東経13958分 / 北緯34.867度 東経139.967度 / 34.867; 139.967の地点で米第58任務部隊空襲を受けるが、被害はなかった。 8月15日終戦時東京湾口で対潜哨戒中で、同日中に横須賀到着16日に「米艦が発砲しつつ湾口向う認めたる時は、断乎これを撃滅すべし」の命令を受け湾口へ向け出港17日横須賀到着24日東京湾へ向かう米艦隊への派遣軍使乗せ横須賀出港し伊豆大島東方沖へ向かうが、暴風雨のため米艦隊入港延期となったため横須賀戻った。翌25日再度軍使搭乗要請を受けるも機関故障により出港できなかった。結局、この任務駆逐艦初桜が行うこととなり、初桜27日相模湾で米艦隊会合した11月30日海軍省廃止に伴い除籍された。終戦までの乗組員戦死者は0人だった。

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船団護衛

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竹生 (海防艦)」の記事における「船団護衛」の解説

1945年昭和20年2月27日竹生佐世保出港し28日に呉に到着呉海軍工廠入渠修理整備を行う。この時に13号電探設置3月2日、呉から門司回航12日から15日にかけて、門司六連島の間を1往復した16日0600、門司出港し、0700に六連到着。0900、特設運送艦聖川丸川崎汽船、6,862トン)、特設運送船辰春丸(辰馬汽船、6,345トン)、箱崎丸(日本郵船10,413トン)他輸送船1隻からなるモタ43船団を第40海防艦、第102海防艦、第106海防艦と共に護衛して六連出港19日、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3307東経12205分 / 北緯33.117度 東経122.083度 / 33.117; 122.083の上海北北東225km地点付近アメリカ潜水艦バラオ(USS Balao, SS-285)に発見される。0258、バラオ艦首艦尾両方発射管から3つの目標向けて魚雷発射。まず辰春丸に1本が命中。辰春丸は大破したものの沈むことはなかった。次に筥崎丸に2本が命中筥崎丸は搭載していたドラム缶詰めガソリン弾薬魚雷誘爆して船尾吹き飛び急速に沈没したが、場所が水深15メートル浅海だったため船体前部22分の炎上した沈没し上部構造物を水面上に出した形で着底した。別の魚雷は第40海防艦至近通過していったが、命中はしなかった。第106海防艦船団誘導し1933に泗礁山泊地到着竹生以下残り護衛爆雷攻撃行ったもののバラオ損害はなく、生存者救助の後21日0800に泗礁山泊地到着した損傷した辰春丸を分離した船団22日0300に泗礁山泊地出港23日馬祖山に寄港した24日1603に福瑤門に到着25日1600出港し26日1700基隆到着した荷役の後、モタ43船団そのまま復航タモ53船団として編制された。 4月1日0615、船団基隆出港東大島沖、温洲湾外、泗礁山泊地青島石渡湾を経由して門司向かった9日北緯3646東経12336分 / 北緯36.767度 東経123.600度 / 36.767; 123.600の山東半島高角南東100km地点付近で、アメリカ潜水艦ティランテ(USS Tirante, SS-420)に発見されるこの頃アメリカ海軍情報部は日本暗号解読し日本軍動静をほぼ予測しており、この情報に応じてティランテは潜航し船団待ち伏せていた。ティランテは輸送船2隻を標的選びそれぞれに3本魚雷発射した魚雷聖川丸には命中しなかったが、日光丸の船首機関室に1本ずつ命中し日光丸は沈没した。この時、輸送船2隻には2隻には台湾産の砂糖帰国する引揚者陸軍兵士および上海からの水兵などを乗せていた。日光丸が沈没すると共に竹生以下護衛艦反撃移った逆襲を防ぐためティランテは護衛艦の1隻に対して新型マーク27誘導魚雷英語版)を発射した魚雷は第102海防艦操舵機に命中し、同艦は航行不能陥った竹生日光丸の生存者救助の後第102海防艦曳航した。船団は格列飛島泊地鞍島群島麗水湾を経由して12日釜山到着13日出港し同日六連到着した25日竹生第二十二海防隊に編入され、隊内区第三小隊配置以後黄海日本海で船団護衛と対潜掃蕩従事7月5日1710、練習巡洋艦鹿島大東第8号海防艦、第52号海防艦と共に舞鶴到着22日1900鹿島高根と共に舞鶴出港するが、後にと共に鹿島高根分離した8月には50船団護衛行い船団14日新潟到着8月15日終戦時新潟所在25日佐世保鎮守府第一予備海防艦定められる11月30日海軍省廃止に伴い除籍された。

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船団護衛

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生名 (海防艦)」の記事における「船団護衛」の解説

30日0900、2A型戦時標準貨物船江ノ浦丸(日本郵船、6,968トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカー延長丸(日本郵船、6,888トン)、海軍配当船で2AT型戦時応急タンカー延元丸(日本郵船、6,890トン)等輸送船15隻で編成されたミ29船団駆逐艦朝顔海防艦干珠新南、第41海防艦、第66海防艦、第223号駆潜特務艇と共に護衛して門司出港。しかし、12月1日深夜船団は米潜シーデビル(USS Sea Devil, SS-400)にレーダーにより発見される。翌2日0414、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3024東経12817分 / 北緯30.400度 東経128.283度 / 30.400; 128.283の屋久島西方150キロ地点付近で、シーデビル魚雷4本を中型貨物船向けて発射したものの、命中しなかった。0424、シーデビル魚雷2本を大型貨物船向けて発射40秒後、海軍給糧艦間宮設計の基となった陸軍輸送船はわい丸南洋海運、9,467トン)の2番船倉魚雷1本が命中魚雷命中により搭載していた弾薬ガソリン誘爆して大爆発したはわい丸はわずか40秒で沈没した。0429、シーデビルは距離1,200メートルにある大型貨物船に対して艦尾発射管から4本の魚雷発射。0430、2AT型戦時応急タンカー安芸川丸(川崎汽船、6,895トン)の4番船倉第1弾が、その30秒後に3番船倉第2弾命中。0520、安芸川丸は4番船倉被雷部で船体折損し、0607に沈没した。このとき沈没した輸送船には読売ジャイアンツ名投手沢村栄治乗船しており、この12月2日雷撃戦死している。『日本商船隊戦時遭難史によれば、この日に沈没した輸送船安芸川丸とはわい丸だけであり、沢村はそのどちらか乗船していたと見られている。はわい丸にはシンガポール進出する海上挺進22戦隊60名、および震洋60隻、陸軍車両50両、弾薬ドラム缶詰めガソリン軍需物資満州からマニラ進出する第23師団一部シンガポール進出する海上挺進22戦隊および同戦隊基地22大隊将兵、計1843名、船砲隊及び警戒隊計83名、船長下船148名、合計2,074名が乗船しており、全員戦死した安芸川丸で陸軍高射砲409名、便乗16名、鋼材開発資材750トン乗せており、陸軍兵士244名、警戒隊7名、便乗者1名、船員18名が戦死したほか、救命ボート脱出して諏訪之瀬島漂着した生存者79名のうち、2名が死亡したまた、貨物船伯剌西爾丸大洋興業、5,860トン)が自らが投下した爆雷炸裂により損傷する船団シーデビルによる安芸川丸とはわい丸撃沈支離滅裂となってしまう。海軍配当船で2AT型戦時応急タンカー神祐丸(大阪商船、6,956トン)は日本本土へ反転損傷した伯剌西爾丸基隆へ、江ノ浦丸は大陸へと向かう。和浦丸三菱汽船、6,804トン)と護衛朝顔、それを追う貨物船くらいど丸(南洋海運、5,497トン)、1D型戦時標準貨物船第十一星丸(山下汽船、1,944トン)と護衛生名2つ小船団は高雄向かったが、途中空襲受けて生名損傷する3日和浦丸以下の船団が、6日にくらいど丸以下の船団高雄到着した高雄到着前の5日第五艦隊連合艦隊南西方面艦隊編入される14日0500、生名干珠、第41海防艦と共に貨物船裕山丸(興国汽船、6,038トン)、同乾瑞丸(乾汽船、4,156トン)他輸送船2隻からなるタマ36船団護衛して高雄出港22日、乾瑞丸が機関故障により後落。同船船団追及中の23日1130、北緯1650東経12018分 / 北緯16.833度 東経120.300度 / 16.833; 120.300のダリガヨス岬西方4km地点付近で米潜ブレニー(USS Blenny, SS-324)の発射した魚雷4本が直撃し沈没した同日船団は北サンフェルナンド到着25日第二十一海防隊は海上護衛総司令部第一護衛艦隊編入される生名マニラ移動日付29日変わった頃、海防艦干珠特設駆潜艇第十一昭南丸(日本海洋漁業統制350トンと共に1B型戦時標準貨物船明隆丸(明治海運、4,739トン)、貨客船菱形丸(拿捕船/大阪商船委託、2,832トン/元米船Bisayas)からなるマタ38A船団護衛してマニラ出港31日1600船団は北サンフェルナンド到着護衛部隊が第66海防艦、第138海防艦交代することになり、3隻は船団から分離した詳細は「ヒ85船団#ルソン島分遣船団」を参照 生名干珠マタ40船団護衛加わり1945年1月1日0345に北サンフェルナンド出港し高雄向かった。しかし、3日船団空襲を受け、陸軍特殊船神州丸陸軍省、8,160トン)が被弾し航行不能となったため放棄され夜に潜水艦アスプロ(USS Aspro, SS-309)の雷撃撃沈された。また、陸軍特殊船吉備津丸日本郵船、9,574トン)も直撃弾を受けて中破する。日付4日に変わる頃、船団高雄到着した4日0315、生名海防艦干珠能美と共に高雄出港途中空襲損傷したものの、同日中に南澳島に到着5日1300、3隻は南澳島を出港し6日1140に高雄到着同日から18日まで応急修理を受ける。 19日特設運送船辰和丸(辰馬汽船、6,335トン)、貨物船羅津丸(大連汽船、5,462トン)、海軍徴用船備後丸(日本郵船、4,643トン)他輸送船4隻からなるタモ38船団海防艦26海防艦、第39号海防艦、第112海防艦と共に護衛して高雄出港20日1742、南日島泊地到着21日0730、南日島泊地出港し、1930に福州沖に到着し仮泊22日0700、船団出発し1600北緯2702東経12027分 / 北緯27.033度 東経120.450度 / 27.033; 120.450の福州北東浅海到着し同地貨客船サマラン丸(南洋海運、4,013トン)、辰春丸、海軍徴用船鐡洋丸(大阪商船、2,130トン)他輸送船11からなるモタ32船団と、護衛駆逐艦汐風、海防艦満珠、第31海防艦、第132海防艦、第144海防艦第19号駆潜艇、第57駆潜艇来着1月22日深夜から1月23日早朝にかけて、米潜バーブモタ32船団接近。0402、バーブ浮上状態で魚雷を4本発射し反転してさらに魚雷を4本発射魚雷陸軍輸送船大恭丸(大阪商船、5,244トン)に3本命中し同船沈没バーブ機雷敷設され水域浮上したまま高速後退した。0600、両船団出発28日2000タモ38船団門司到着1月31日0630、輸送船3隻からなるモタ34船団を第26海防艦、第67海防艦と共に護衛して門司出港2月3日2100、泗礁山泊地到着4日0400、泗礁山泊地出港し1820温州沖に到着し仮泊5日1100温州沖を出発し、1730に福州沖に到着して仮泊6日0300、福州沖を出発し1830船団基隆到着9日0700、陸軍特殊船日向丸日産汽船、9,587トン)、同摂津丸大阪商船、9,670トンからなるタモ41船団を第26海防艦、第67海防艦と共に護衛して基隆出港1900馬祖島到着10日0700、馬祖島出港し温州湾に移動11日温州湾を出港し、1930に泗礁山泊地到着12日0230、泗礁山泊地出港し14日1815六連島到着16日0630、生名六連島出港し1400佐世保到着同日から27日まで佐世保海軍工廠修理を受ける。 28日0730、生名佐世保出港し、1730に門司到着する3月1日0800貨物船生駒山丸(三井船舶、3,173トン)、2D型戦時標準船愛山丸(宮地汽船、2,221トン)、同道志丸(日本郵船、2,275トン)他輸送船4隻からなるモタ40船団を第26海防艦、第41海防艦第17号掃海艇第19号駆潜艇と共に護衛して六連島出港途中道志丸が舟山に向かうため分離9日2010船団基隆到着16日0102生駒山丸、愛山丸、2D型戦時標準船喜多方丸(会陽汽船、2,216トン)他輸送船1隻からなるタモ49船団を第41海防艦第17号掃海艇と共に護衛して基隆出港同日北緯2909東経12207分 / 北緯29.150度 東経122.117度 / 29.150; 122.117の地点船団空襲を受け、喜多方丸が損傷17日生駒山丸が機関故障起こして後落。荒天により、船団は白犬島に向かうこととなったが、その途中北緯2558東経11958分 / 北緯25.967度 東経119.967度 / 25.967; 119.967の地点で米潜スポット(USS Spot, SS-413)に発見される0100頃、スポット生駒山丸へ向け魚雷発射魚雷生駒山丸の1番船倉に命中積荷ブタノール引火し炎上する生駒山丸は馬祖島座礁して修理行ったが、3月26日アメリカ陸軍航空隊爆撃受けて放棄された。0335、スポット北緯2533東経12010分 / 北緯25.550度 東経120.167度 / 25.550; 120.167の牛山東方24km地点付近貨物船南京丸(大阪商船、3,005トンに対して魚雷発射魚雷命中した南京丸は瞬時に大爆発起こして轟沈し、乗船者503全員戦死したスポット一連の攻撃魚雷全弾を消費攻撃悪天候の中浅海行われスポット浅海潜航する不利を嫌って浮上し離脱図ったものの、反撃してきた第17号掃海艇回避することができず、第17号掃海艇は3,800mまで接近して砲撃始めた荒れる海の中、スポット艦載砲による反撃始めた甲板濡れて難渋したものの、幸運にも5インチ砲弾第17号掃海艇前方艦載砲真下命中スポットは、一時90メートルまで接近した第17号掃海艇攻撃かろうじて回避したスポット砲手回収し潜航始めた護衛艦少数爆雷投下したが、スポット損傷を負うことはなかった。同日1308、船団馬祖島到着19日船団馬祖島出港し20日1810に韮山列島到着21日韮山列島出港し22日に泗礁山泊地到着23日1000に泗礁山泊地出港し29日0920に油谷湾到着その後出港し31日門司到着した

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船団護衛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/15 18:34 UTC 版)

海戦術」の記事における「船団護衛」の解説

船団護衛とは戦時において非戦目的船舶航行海軍空軍部隊によって護衛する作戦行動である。近世以降戦時国際法中立法規によって中立国軍艦護衛の下に置かれ船舶臨検免除主張することが可能であった第一次世界大戦においては船団護衛の利害について議論があったが、ドイツ交戦国だけでなく中立国商船へも無制限潜水艦戦を行うことを宣言したために船団護衛は不可欠なものとなり、その護衛制度発達とともに有効性が後の戦争実証された。 船団商船指定されたとおりに陣形形成して護衛艦その先頭と両翼配置される潜水艦攻撃対処できる駆逐艦などが有効であるが、航空母艦による航空援護も現在では行うことができる。 船舶護衛第一次世界大戦第二次世界大戦においてしばしば行われた。

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