船団護衛、対潜掃討任務
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「鹿島 (練習巡洋艦)」の記事における「船団護衛、対潜掃討任務」の解説
1945年(昭和20年)1月1日、船団護衛のため第一護衛艦隊に第102戦隊(司令官浜田浄少将)が編制され、旗艦鹿島、海防艦6隻(屋代、御蔵、2号、33号、34号、35号)が編入した。対潜攻撃力を増強する改修工事を施した後、2月、海防艦第14号、第16号、第46号と共にモタ36船団(めるぼるん丸、日昌丸)を上海まで護衛した。 22日から3月12日までAS1作戦(対潜掃討作戦、北緯32度線以南の中国沿岸)の指揮を執った。3月13日から17日までは台湾海峡北部から揚子江口までの対潜掃討作戦(AS2作戦)が、また19日から対馬海峡から黄海南部までの対潜掃討作戦(AS3作戦)が行われた。 5月は朝鮮半島沿岸での対潜掃討に従事した。5月19日に巨済島沖で貨物船大進丸と衝突し、鹿島は艦首を小破、鎮海で応急修理に入った。7月、102戦隊を外れて舞鶴に入港し、修理を完了させた後、北陸から東北にかけての北部日本海の対潜・掃海作戦を指揮するため海防艦高根、鵜来、竹生と共に七尾湾に移動。8月、終戦を迎えた。 8月22日呉に寄港した。10月5日帝国軍艦籍を除籍され、復員輸送艦となった。10月23日には第4艦隊所属時に管轄したヤルート島を再訪、第62警備隊911人を収容するなど、12回に渡る復員輸送で活躍した。1946年(昭和21年)11月26日から翌1947年(昭和22年)6月15日にかけて川南工業香焼島造船所で解体された。
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