船団護衛任務
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その頃、着艦訓練を終えた海鷹は、3月17日付で第一海上護衛隊に編入されていた。第九三一海軍航空隊の九七艦攻12機を海鷹に搭載する。海鷹の護衛空母としての初任務は、ヒ57船団である。この船団はタンカー8隻と陸軍特殊艦神州丸の合計9隻から成り、護衛艦艇は7隻(空母〈海鷹〉、海防艦〈択捉、壱岐、占守、第8号、第9号〉、水雷艇〈鷺〉)であった。4月3日午前6時、ヒ57船団部隊は山口県関門海峡沖合の六連泊地を出撃した。4月16日、シンガポール(昭南)に到着する。改めてヒ58船団となり、5隻(海鷹、択捉、壱岐、占守、第9号海防艦)は加入船舶7隻を護衛して4月21日に昭南を出発した。4月24日、「海鷹」搭載の九七式艦攻がアメリカ潜水艦ロバロー (USS Robalo, SS-273) を爆撃し被害を与えた。5月3日、門司に帰還した。海鷹は瀬戸内海回航後、呉海軍工廠で入渠して修理を行う。 5月下旬、海鷹は二回目の船団護衛任務に従事する。5月29日、第七護衛船団司令官松山光治少将は練習巡洋艦(軽巡)香椎に乗艦、空母「海鷹」、海防艦(淡路、千振、19号)、駆潜艇60号、敷設艇燕、陸軍特殊艦神州丸と油槽船11隻からなるヒ65船団を指揮して日本本土(北九州門司港)を出撃、シンガポールへ向かった。火焼島沖合を航行中の6月2日午前2時45分、アメリカ潜水艦ギターロ (USS Guitarro, SS-363) の雷撃で海防艦淡路が沈没した。続いて回避行動中に貨客船有馬山丸と神州丸が衝突する。神州丸は搭載爆雷の誘爆で大破、香椎は神州丸を台湾基隆市まで曳航した。6月11日(12日とも)、ヒ65船団部隊は、シンガポールに到着した。帰路のヒ66船団(軍艦〈香椎、海鷹〉、海防艦〈千振、7号、11号〉、護衛対象4隻)は6月17日にシンガポールを出発する。損傷艦なく6月26日に門司へ帰投した。 7月上旬、2隻(香椎、海鷹)は呉海軍工廠で修理を行う。7月中旬、海鷹はフィリピンへの輸送作戦に参加した。門司出航のヒ69船団に加わる。同行する空母3隻(大鷹、海鷹、神鷹)のうち対潜哨戒機を搭載していたのは神鷹のみである。大鷹と海鷹は航空機輸送艦として、零戦95機、艦爆彗星1機、艦攻天山5機、局地戦闘機雷電10機、夜間戦闘機月光9機を輸送した。ヒ69船団旗艦は練習巡洋艦香椎(指揮官、第五護衛船団司令官吉富説三少将)、護衛部隊は6隻(香椎、神鷹、千振、佐渡、第七号海防艦、第十七号海防艦)であった。7月13日-14日、ヒ69船団部隊は北九州を出撃する。7月18日、第十七号海防艦がアメリカ潜水艦タイルフィッシュ (USS Tilefish, SS-307) の雷撃で中破、台湾高雄市に回航された。他に被害はなく、20日マニラに到着した。ここで輸送用航空機を陸揚げした大鷹と海鷹は、神鷹と分離する。神鷹はヒ69船団部隊としてシンガポールに向かった。大鷹はヒ68船団として帰投した。 一方、海鷹はマモ〇一船団(空母海鷹、輸送船浅間丸、護国丸、護衛艦艇〈駆逐艦秋風〔第30駆逐隊〕、駆逐艦初霜〔第21駆逐隊〕、掃海艇28号、駆逐艦栂 〉)として、7月25日にマニラを出発する。27日、マモ〇一船団は高雄(台湾)に到着した。ここで秋風はマニラへ戻った。マニラ滞在中の7月29日、高尾大佐(海鷹艦長)は呉鎮守府付となる。北村昌幸大佐は臨時海鷹艦長に任命された。7月31日、マモ〇一船団部隊は高雄を出発する。航海中の8月1日、有田雄三大佐は海鷹艦長に補職される。8月3日、船団部隊は九州に到着した。海鷹は呉に到着。機関故障修理のため、ただちに呉海軍工廠に入渠した。8月から10月中旬にかけて、呉海軍工廠で整備と修理に従事した。 10月17日、海鷹は連合艦隊の指揮下に入る。空母2隻(龍鳳、海鷹)は台湾沖航空戦に伴って損害を受けた台湾高雄市の航空廠や、各航空部隊向けの資材を輸送することになった。部隊指揮官は有田雄三大佐(海鷹艦長)。10月25日、緊急輸送部隊(空母〈海鷹、龍鳳〉、松型駆逐艦〈桃、梅、樅、榧〉)は佐世保を出撃する。27日、基隆に到着。物資を揚陸し、帰路はアルコールや燃料用砂糖を積載した。30日、基隆を出発する。11月1日-2日、艦隊は無事に内地に到着した。各艦は、それぞれ原隊に復帰する。11月21日まで、海鷹は呉海軍工廠で修理と整備を行う。 11月下旬、海鷹は最後の護衛任務に従事する。11月25日、北九州を出撃。護衛艦艇(空母海鷹、睦月型駆逐艦夕月と卯月、松型駆逐艦檜、樅、榧、海防艦〈第25号、第35号、第63号、第64号、第207号〉)、貨物船5隻とタンカー3隻、他2隻から成るヒ83船団を護衛してシンガポールに向かった。11月30日、第九三三海軍航空隊基地物件搭載の第30駆逐隊(夕月、卯月)は分離して馬公市に向かう。海鷹含めヒ83船団は高雄市に到着した。12月1日、高雄市でマニラ行きの駆逐艦と貨物船を分離する。12月3日朝、第六十四号海防艦は米潜水艦パイプフィッシュ (USS Pipefish, SS-388) に撃沈された。航海中の12月10日、海鷹は第一護衛艦隊に編入される。12月13日、海鷹ふくめヒ83船団部隊はシンガポールに到着した。12月26日、ヒ84船団はシンガポールを出撃する。1945年(昭和20年)1月4日、香港到着。翌日出発、1月13日に門司に到着した。その後は、艦上機や燃料が枯渇してきた上に制海権が連合国軍に握られたこともあり大規模船団は運航停止に追いこまれ、海鷹は瀬戸内海で標的艦(目標訓練艦)となった。 詳細は「呉軍港空襲」を参照 1945年(昭和20年)3月15日、有田雄三大佐(海鷹艦長)は海軍水雷学校教官へ転任した。後任の海鷹艦長は、国府田清大佐(当時、海軍運輸本部総務課長)。だが国府田大佐はしばらく着任できず、引き続き有田大佐が艦長として指揮をとった。3月19日、アメリカ海軍機動部隊艦上機は呉軍港を空襲する。高高度から撮影した呉軍港の写真では、海鷹の左舷前方に戦艦大和、海鷹前方に航空戦艦日向、海鷹右舷後方に戦艦榛名(繋留中)が写っている。空襲時の海鷹は雲龍型航空母艦2隻(天城、葛城)付近に停泊しており、飛行甲板を貫通した爆弾1発が海面で炸裂した。戦死者3名。重油タンクや左舷機械室に浸水する被害を受けた。比較的損傷の小さかった海鷹は、他の残存空母(龍鳳、鳳翔、天城、葛城)と共に、飛行甲板に植物を置くなどの偽装を行った。3月28日、呉鎮守府護衛部隊に編入される。
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船団護衛任務
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1943年(昭和18年)10月15日の竣工と同時に、浜波は訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官木村進少将・海軍兵学校40期)に編入された。瀬戸内海に回航され、約二ヶ月間にわたり臨時編入艦と共に訓練を受けた。 12月15日、浜波は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期)麾下の第32駆逐隊に編入される。当時の32駆司令は、白露型駆逐艦夕立初代艦長や陽炎型駆逐艦時津風初代艦長等を歴任した中原義一郎大佐であった(海軍兵学校48期)。第32駆逐隊は前月のラバウル空襲で夕雲型駆逐艦10番艦の涼波を喪失して3隻編制となっており(昭和19年1月5日、涼波除籍)、本艦の編入により定数4隻(玉波、早波、藤波、浜波)となった。 浜波の最初の外洋遠距離航海は、波船団の護衛だった。日本陸軍第52師団(10月20日に中部太平洋方面派遣命令、11月15日編成完結)を、中部太平洋方面の各島に輸送する作戦である。複数運航される船団のうち、第17駆逐隊司令谷井保大佐(司令駆逐艦「浦風」)指揮下のトラック行き船団を波船団と称した。波船団の船団区分は、甲梯団(護衛艦〈浦風、浜波〉、輸送船〈妙義丸、日昌丸、松江丸、御影丸〉)、乙梯団(護衛艦〈朝雲、波勝〉、輸送船〈第三吉田丸、夕映丸、長野丸〉)であった。12月24日、浜波は呉港から宇品に移動して陸兵45名を受け入れる。同日、宇品から佐伯港に移動する。12月25日、波船団の第一梯団は佐伯を出撃した。 1944年(昭和19年)1月4日、波船団(甲梯団)はトラック諸島に到着した(乙梯団は7日トラック着)。陸兵45名は浜波から退艦した。 1月7日、浜波は輸送船松江丸(日本郵船、7,061トン)を護衛して、トラック泊地を出発した。9日、5072船団はポンペイ島(ポナペ島)に到着した。南洋第三支隊は同島に上陸した。浜波は直ちに反転し、10日トラック泊地に帰投した。数日間、トラック泊地で待機する。1月12日、早川幹夫第二水雷戦隊司令官は、二水戦の駆逐艦時雨と浜波を視察した。 1月17日、二水戦の浜波と島風はパラオ方面派遣駆逐艦に指定される。第二海上護衛隊の指揮下に入り、引続き船団護衛任務に従事した。20日、浜波と第30号駆潜艇は「第七二〇二船団」(第三小倉丸、第二共栄丸)を護衛してトラック泊地を出発する。1月26日、7202船団はパラオに到着した。 1月30日、第二海上護衛隊の命令を受けた浜波と駆潜艇30号は、佐多船団護衛のためパラオを出港した。31日にメレヨン島で仮泊したあと、翌日出発した。2月2日、洋上で佐多船団と合流する。特設駆潜艇1隻が途中で離脱したあと、佐多船団は2月7日トラック泊地に到着した。 2月12日、護衛艦艦艇(浜波、駆潜艇30号、第五昭南丸、第二拓南丸)は佐多船団を護衛してトラック泊地を出撃、パラオに向かう。佐多船団は、給油艦佐多、特設給兵船日朗丸(日産汽船、6,534トン)、特設水雷母艦神風丸(山下汽船、4,918トン)、第二菱丸、北上丸であった。だが2月17日-18日にかけて、佐多船団はアメリカの潜水艦サーゴ (USS Sargo, SS-188) の襲撃を受けた。雷撃により日朗丸が轟沈。佐多が航行不能となる。浜波は佐多を救援しつつ、対潜掃討を実施した。19日、佐多は特設給兵船新玉丸(玉井商船、6,783トン)に曳航されてパラオに向かった。20日、佐多船団はパラオに到着し、その後の浜波は同地で待機した。 2月25日午前11時前後、パラオに姉妹艦早波と水上機母艦秋津洲(トラック島空襲で損傷中)が到着する。この少し前、「空母を含む敵大部隊パラオ接近」の報告により、遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官)はパラオ在泊艦艇(第四戦隊、第五戦隊、第二水雷戦隊、工作艦明石他)のダバオ(フィリピンミンダナオ島)への回航を命じる。当時の第二水雷戦隊旗艦は重巡洋艦鳥海だった。二水戦司令部は鳥海から浜波に移動、本艦は第二水雷戦隊旗艦となる。二水戦(浜波、早波、藤波)はパラオ水道で対潜掃蕩を実施するが、直後に「敵機動部隊」は誤報だったことが判明した。ダバオ回航命令は命令は取り消される。二水戦旗艦は鳥海に戻った。 3月中旬、高崎船団を護衛したあと、タンカーの護衛任務に従事する。4月中旬、リンガ泊地に移動して訓練に従事した。4月15日、第32駆逐隊司令は中原義一郎大佐から折田常雄大佐に交代した。中原大佐は5月8日附で軽巡洋艦長良艦長に任命されるが、8月7日の同艦沈没時に戦死した(中原は海軍中将へ特進)。
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