8月から10月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:35 UTC 版)
「オンタリオ湖での戦闘」の記事における「8月から10月」の解説
アメリカ戦隊がオンタリオ湖を支配している間に、セントローレンス川のプレスクアイルで建造中だった大砲10門搭載ブリッグ艦を進水する前に破壊した。 8月5日、イギリスの3隻の艦船(ネットリー、チャーウェル、マグネット)が物資を積んでヨークからナイアガラ川に航行した。マグネットが他の2隻より遅れて航行しており、突然チョウンシーの戦隊が現れたときは、逃げられなかった。ジョージ砦の西約6マイル (10 km) で座礁した。幾らかの物資を退避させた後に火を付け、アメリカ軍上陸部隊が船を確保できる前に爆発した。マグネットの指揮官ジョージ・ホークスワース海軍大尉が11月に軍法会議に掛けられ、その艦を失ったことで有罪となった。ホークスワースはイギリス海軍から解任され、後にアメリカに寝返ることになった。 しかし、チョウンシーはキングストンの封鎖に注力した。ヨーはその戦力が劣っている間は出て行くつもりが無く、チョウンシーは、アメリカ陸軍がナイアガラ半島で侵攻することを支援できず、その作戦ではかばかしい結果に繋がらなかったことで、陸軍のジェイコブ・ブラウン少将やその他指揮官に非難された。アメリカ戦隊の小型艦艇3隻のみがナイアガラ川の緩やかな封鎖を続けていた。イギリス戦隊の小型艦3隻(スター、ネットリー、チャーウェル)がアレクサンダー・ドブス海軍中佐の指揮で川を封鎖しており、その乗組員がギグ1隻と平底船6隻を陸路運び、川の最上流でエリー湖戦隊を構成していたアメリカのスクーナー2隻に乗り込んで捕獲した。その後エリー砦包囲戦では強襲に加わったが、大きな損失を出して失敗した。 最終的に9月21日、チョウンシーの艦船がジョージ・イザード少将の師団をサケッツ港からジェネシー川に運び、ナイアガラのアメリカ陸軍を補強した。ジェイコブ・ブラウン少将より上級だったイザードは、勢力に劣るイギリス軍に対して総攻撃を掛けることを拒否し、最後はナイアガラ川のアメリカ側に引き返した。
※この「8月から10月」の解説は、「オンタリオ湖での戦闘」の解説の一部です。
「8月から10月」を含む「オンタリオ湖での戦闘」の記事については、「オンタリオ湖での戦闘」の概要を参照ください。
- 8月から10月のページへのリンク