アメリカ軍上陸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:26 UTC 版)
4月1日に米軍が嘉手納海岸から上陸してくるが、22連隊は島尻地区の陣地において沖縄本島南方からの奇襲上陸に備えていた。 4月10日、22連隊は豊見城から首里方面への陣地移動が命じられた。これにより22連隊は、戦闘に本格的に参加していく。首里北方を守備していた62師団が損害甚大となったことで、沖縄戦最大規模の激戦となった嘉数の戦いなどに参加する。この時、22連隊は行軍中に、神風特攻隊が敵艦に命中する光景を目撃して「やった。万歳!」と一斉に喜び叫んだ。南風原から与那原に移動し、運玉森に集結した。 4月11日朝、22連隊本部は、首里北方の弁ヶ岳付近に進出した。第1大隊は南上原へ、第2大隊は我如古へ、第3大隊は仲間に進出していった。 4月12日、22連隊は日本軍反撃の主力として第62師団に編入されたが、地理不案内なため行動に支障をきたしていた。第1大隊(大隊長 鶴屋義則少佐 士52期 鹿児島県出身)は翁長の155高地(米称:ツームヒル。現:琉球大学の東の丘頂上)に斬り込みを敢行したが、米軍は最新鋭の赤外線眼鏡を狙撃班に装備していたため、先頭の第1中隊(中隊長 鈴木義雄大尉 士56期 岩手県出身)は奇襲に失敗し、中隊長以下約60名の戦死者を出して後退した。第2大隊(大隊長 平野茂雄大尉 特志 愛媛県八幡浜出身)の一部は、142高地(米称:ロッキークラッグス。現:琉球大学の西の丘頂上)に移動して夜間斬り込みを敢行した。しかし、米軍の砲撃の前に日本軍の攻勢は挫折した。この日、フランクリン・ルーズベルト大統領が急逝した。だがアメリカ軍の攻勢に変化はなかった。4月13日、22連隊は首里北方の西原村に展開した。22連隊は、左翼、右翼部隊に増援派出を命じられる。第1大隊は南上原での戦闘を継続したが、第2大隊は、棚原地区でゲリラ戦術により善戦している独立歩兵第12大隊(大隊長 賀屋与吉少佐)に配属される。また第3大隊(大隊長 田川慶介大尉 士53期 愛媛県松山出身)は、嘉数の戦いで戦果をあげている独立歩兵第13大隊(大隊長 原宗辰少佐)に配属されたが、米軍の絶え間ない砲撃により、通信線は寸断され伝令は出られず、連絡がとれないままになっていた。22連隊では、軍用犬を連絡に走らせたが、それも壕を突っ走った途端に撃ち殺された。 4月16日、22連隊第1大隊と迫撃砲中隊は、南上原で米軍を撃退したが、翌日には幸地に後退した。この日、中城村の女子青年義勇隊60名が、22連隊の各隊に弾薬や食料を運び込んでくれた。地元出身の兵隊も村から食料を調達するために弾の下をくぐって活躍していた。 4月17日、第2大隊は、独立歩兵第12大隊から配置を解除された。 4月18日、牧港から米軍の総攻撃が始まった。22連隊第3大隊は、22連隊本部と連絡が途絶しながらも防戦を続けていた。 4月21日夜、伊祖高地の奪還のため、22連隊第3大隊は、夜襲を敢行した。この時、愛媛県人が多数所属する独立歩兵第15大隊と独立臼砲第1連隊も参加したが、攻撃は成功せず、甚大な犠牲を払った。
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