日本軍の攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)
物資の不足から[要出典]補給・増援がままならない中、3月8日、第15軍隷下3個師団(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、予定通りインパール攻略作戦を開始した。日本軍は1個師団(第31師団)を要衝ディマプルとインパールの結節点であるコヒマに進撃させ、残りの2個師団が東、南東、南の3方向よりインパールを目指した。しかし作戦が順調であったのはごく初期のみで(これは連合軍側の重点防御地域でなく最初から放棄地帯とされ、防御を固めたインパールへ日本軍を仕向ける罠であった)、ジャングル地帯での作戦は困難を極めた。牟田口が補給不足打開として考案した、牛・山羊・羊・水牛に荷物を積んだ「駄牛中隊」を編成して共に行軍させ、必要に応じて糧食に転用しようと言ういわゆる「ジンギスカン作戦」は、頼みの家畜の半数がチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらに行く手を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前にさらに脱落し、たちまち破綻した。所々にある狭く急な坂では重砲などは分解し人力で運ぶ必要があり兵士らは消耗していった。また3万頭の家畜を引き連れ徒歩で行軍する日本軍は、進撃途上では空からの格好の標的であり、爆撃にさらされた家畜は荷物を持ったまま散り散りに逃げ惑ったため、多くの物資が散逸した。このため糧食・弾薬共に欠乏し、火力不足が深刻化、各師団とも前線に展開したころには戦闘力を大きく消耗する結果を招いた。 物資が欠乏した各師団は相次いで補給を求めたが、牟田口の第15軍司令部は「これから送るから進撃せよ」「糧は敵に求めよ」と電文を返していたとされる。また、この時期、日本軍に対してイギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中投下して支え、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退した。これに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御の頑強さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は歯が立たず、この円筒陣地を「蜂の巣陣地」と呼んだ。皮肉にも日本兵はイギリス軍輸送機の投下した物資(「チャーチル給与」と呼ばれた)を拾って飢えをしのいだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だった。 日本軍の攻勢に対して連合軍は、この頃までに確保しつつあったビルマでの制空権を存分に活用して対応した。連合軍航空部隊はイギリス軍第4軍団に近接支援を行う一方、日本軍の集結地点のほか、チンドウィン川に至る交通路を攻撃したが、雨季の到来もこうした作戦行動に影響を及ぼさなかった。また、連合軍は米英両軍のC-47を中心とする輸送機を動員して大量の人員や物資をインパールまで空輸したため、陸路で遮断されていたにもかかわらず補給線は辛うじて確保されていた。戦闘開始当初は、ビルマ戦線にあった連合軍輸送機の多くは援蔣ルートの中でもヒマラヤ山脈を越えて援助物資を輸送する「ハンプ越え(英語版)」に使用されており、しかもウィンゲート空挺団やアラカン方面の第15軍団の支援にも駆り出され、輸送機が不足した。苦心の末に3月中旬からハンプ越え用輸送機のうち20機を抽出してインパールへの空輸に振り向けたが、なおも不足した。パレル飛行場が酷使による滑走路破損や日本軍のコマンド攻撃で使用不能になったため、インパールの仮設滑走路が頼みの綱であった。第4軍団は食糧を定量の2/3に減らし、インパールに残っていた非戦闘員43,000人を空路で脱出させるなどしてしのいだ。その後、イギリス空軍の輸送司令部の改編が効果を上げたことで、第4軍団への補給不足は解消された。
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