日本軍の敗因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/03 06:15 UTC 版)
日本軍が1月半前のトラック島空襲の二の舞ともいうべき大損害を出した原因については、せっかく事前に敵機動部隊の接近に気付いていながら迅速な対応を行わなかったことや、戦闘艦以外の支援艦船や輸送船の退避が徹底しなかったことなどが指摘されている。 初動が遅れた点に関して、吉田俊雄は敵艦隊が750海里まで迫っているのに福留連合艦隊参謀長は余裕があると判断していた事実を問題視し、低速な戦艦中心時代の感覚が身に染みており、高速の空母中心時代に対応できていなかったのではないかと評している。 また、船舶の避難が徹底しなかった点に関して、当時の伊藤整一軍令部次長は、(1)陸軍徴用船を管理する船舶司令部が反対したこと、(2)船長が第30根拠地隊の命令に服従する義務があるのか疑問を持っていたこと、(3)出航準備の進捗が遅く夜間となってしまい、船団指揮官が出港を断念したことを指摘している。そして、「連合艦隊は避難に関して熱心でないように思う」とまとめている。これに対し、吉田俊雄は、連合艦隊司令部が陸上に移動したり戦闘艦艇は避難させていることを指摘し、避難に熱心でなかったという評は不正確だと主張する。吉田は、福留連合艦隊参謀長らの感覚が近代的な総力戦に合っておらず、工作艦や輸送船の価値を二義的なものと認識していたことが問題なのだと主張している。船舶に対する退避命令の権限が問題になったことに関しては、その後、海上護衛総司令部が連合艦隊管理地域でも独自の退避命令権を有すると明確化された。 このほか、日本海軍による調査では、輸送船の船長らが出港を嫌った背景として、すでに手遅れであるから港内にとどまることで人命だけでも救おうと考えたという事情が指摘されている。また、乗員がすぐに陸上に避難してしまったため、ダメージコントロールが十分にできなかったことも沈没船を増やした一因と分析している。
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