日本軍の渡河作戦とハルハ河西岸での戦い
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「ノモンハン事件」の記事における「日本軍の渡河作戦とハルハ河西岸での戦い」の解説
歩兵団長小林恒一少将が指揮する西岸攻撃隊は15名乗りの折畳鉄船と乙式軽渡河材料により渡河することとしたが、架橋作業に手間取った上、川の流速が早く橋の強度が足りなかったため、トラックや弾薬などの重量物を同時に渡らせることができず、渡河終了が予定よりも7時間も遅れてしまった。ジューコフは、7月2日に安岡支隊がハルハ河東岸を攻撃したことを知ると、東岸が主攻正面と誤認し、安岡支隊の側面を突くべく、予備部隊であった第7機械化旅団、第11戦車旅団、第8装甲車旅団、第24自動車化狙撃連隊を出撃させた。ジューコフは全く日本軍の渡河作戦を予想しておらず、虚を突かれる形となり、西岸を進む小林兵団に対応できる兵力はモンゴル騎兵1,000名程度であったため、小林兵団は殆ど妨害を受けることなく渡河に成功した。 渡河に成功した歩兵第71連隊は、反撃してきたモンゴル軍騎兵隊を蹴散らすと渡河地点近隣のバイン・ツァガン山に達した。ソ連軍は、偵察活動を十分に行っておらず日本軍の動きを全く把握していなかった。しかし、ハルハ河東岸に送るため進軍を急かせていた第11戦車旅団などの機甲部隊が、偶然にも小林兵団の渡河地点のすぐ近くまで達しており、7月3日午前7時にバイン・ツァガン山から前進していた日本軍歩兵第72連隊とソ連軍第8装甲車旅団の装甲車8輌が不意の遭遇戦となった。日本軍は九四式三十七粍砲を装備しており、8輌の装甲車の内5輌を撃破し1輌を鹵獲した。この時点では日本軍の戦力規模が不明であったため、ソ連軍司令部は第11戦車旅団の第2大隊に日本軍の渡河地点攻撃を命じた。8時45分に23輌のBT-5と東捜索隊殲滅に絶大な威力を発揮したkHT-26化学戦車5輌が日本軍歩兵第71連隊を攻撃した。小林兵団は第一次ノモンハン事件の戦訓を活かし、対戦車戦闘班として志願者により肉薄攻撃隊を組織していた。肉薄攻撃隊はサイダーの空き瓶にガソリンを詰めて作った火炎瓶を1名あたり2、3本持っており、導火線に火をつけてソ連軍戦車に向かって投げつけると、100 km以上の連続走行と炎天下の暑熱で高温となっていたソ連軍戦車は容易く炎上し、やがてガソリン燃料に引火し弾薬が誘爆を起こしたり、たまらず飛び出してきたソ連軍戦車兵が日本軍に撃ち倒された。また九四式三十七粍砲も威力を発揮し合計16輌の戦車を撃破した。最後に残った化学戦車には、日本軍肉薄兵が履帯に爆薬を設置、爆発により行動不能となった戦車を包囲し、ソ連戦車兵に降伏を呼び掛けたが応じなかったため、戦車から引きずり出し銃剣で刺殺している。 ここで初めて日本軍が大部隊をもってハルハ河を渡河したことを知ったジューコフであったが、到着した予備部隊は戦車と装甲車だけで、歩兵や砲兵の支援戦力は当分到着しそうになかった。そこでジューコフはソ連野外教令188条『砲兵の支援を受けない戦車の単独攻撃の実施は許さない』とする規定を破り、歩兵・砲兵の到着を待たずに、手もとにあった重砲部隊のみの支援で、到着した戦車と装甲車だけで直ちに反撃させることとした。 午前11時から、ソ連軍第11戦車旅団と第8装甲車旅団が日本軍の各部隊に対し戦車133輌、装甲車59輌で攻撃を開始した。小林兵団には戦車・装甲車は1輌もなく、役に立ちそうな対戦車兵器は九四式三十七粍砲34門、三八式野砲12門、四一式山砲8門に火炎瓶と対戦車地雷だけであったが、歩兵の支援がないソ連軍装甲部隊に対しては大きな効果があった。11時30分には第11戦車旅団主力が戦車94輌で攻撃してきたが51輌を撃破して撃退、15時には第7装甲車旅団が歩兵第72連隊を装甲車50輌で攻撃してきたが36輌を撃破するなど、日本軍は戦果を重ねた。多くのソ連軍の戦車・装甲車が戦場の至る所で撃破されて炎上しているので、その立ち上る黒煙を見た第71歩兵連隊の兵士はその黒煙を工業地帯の煙突から立ち上る煙に見たて「時ならぬ八幡工業地帯を現出」と戦闘詳報に記している。 損害を顧みない猛攻撃で、ソ連軍は戦車77輌と装甲車36輌を1日で失ったが、日本軍の進撃は完全に停止し、防戦一方となった。歩兵第26連隊(連隊長須見新一郎大佐)は渡河地点から3 km先まで進撃したが、そこでソ連軍機甲部隊の猛攻を受け、多数の戦車・装甲車(須見の申告では83輌)を撃破しながらも、司令部との連絡が途絶し、傘下の大隊も個別バラバラに戦闘する情況に陥っていた。そのうち火炎瓶や地雷などの対戦車資材が枯渇すると、第1大隊(大隊長安達少佐)はソ連軍戦車に蹂躙され、大隊長と中隊長が戦死し、部隊も3つに分断されて敵中に孤立してしまった。歩兵第26連隊のほかの大隊も激しい攻撃を受け続けており、須見は一旦渡河地点まで第2、第3大隊を後退させ態勢を立て直すと、夜に第1大隊を救出し、死傷者を回収することとした。 前線に帯同していた服部と辻の関東軍参謀は、いくら損害を被っても止むことのないソ連軍の攻撃を見て「恐らく敵は今夜更に新鋭を増加して、明朝から反撃に転じるだろう。ハルハ河東岸の戦線も、漸く膠着の色が見える」と判断し、小松原に西岸からの撤退を勧告した。砲弾を中心とした弾薬も枯渇しつつあったし、何よりも撤退路がたった1本の脆弱な橋であるということも不安材料で、このままならソ連軍戦車に先回りされて橋が破壊され退路が断たれる危険性も大きかった。服部と辻がこの責任はすべて関東軍が負うと約束すると、内心は撤退したがっていた小松原と第23師団参謀も同意し、16時に小松原は「師団は速やかに左(西)岸を徹し、以後右(東)岸のソ蒙軍を撃滅する」と命じた。 翌7月4日から日本軍は撤退を開始した。先日の大損害でソ連軍は大規模な追撃を行うことができなかった。ジューコフはそのような状況を見て「歩兵の不足は敵残存将兵に河向うに退去するチャンスを与えた」と悔やんだ。それでもソ連軍航空機による爆撃、重砲による砲撃、第24自動車化狙撃兵連隊の攻撃で日本軍は少なからず損害を被っている。ここでもソ連軍の152mm砲が猛威をふるい、第23師団司令部付近に着弾、参謀長の大内大佐が戦死し司令部要員も四散しバラバラとなった。 日本軍の他の部隊が撤退中の4日夜半に、歩兵第26連隊は第1大隊の救出作戦を敢行した。第2大隊、第3大隊から抽出された救出部隊は、自らも多くの死傷者を出しながら第一大隊の生存者の救出と遺体の回収を完了し、日本軍の殿として最後に橋を渡って撤退した。 7月5日に小林兵団は撤退に成功した。ソ連軍は日本兵数千人を戦死させたと過大戦果報告をしたが、この一連の西岸渡河戦での日本軍の死傷者は8,000名の兵力の内800名であり、この大半が第26連隊の死傷者であった。
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