生存者の救出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:58 UTC 版)
「日本航空123便墜落事故」の記事における「生存者の救出」の解説
消防庁地域防災課長木下英敏によると、上野村 消防団が13日午前6時30分に出発、3時間後の10時30分スゲノ沢づたいの墜落現場に到着。10時50分ごろ団員が生存者を発見した。発見の順番は、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生、非番の客室乗務員の26歳女性、となっている。 元群馬県警察本部長河村一男によると、13日午前10時45分、長野県警の機動隊員がスゲノ沢第3支流で尾根を300m滑り落ちた機体後部の残骸の中から生存者を発見した。生存者は4人で、発見の順番に非番の客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生と食い違っている。河村一男によると、最初に発見された非番の客室乗務員は、残骸に挟まれて胸から上が左にくの字になり、右手だけを出して手を振っていた。二番目の主婦は、客室乗務員の残骸を取り除いているうちに、数メートル上方に空洞があり、そこから見つかった。三番目の女子小学生の娘は、母親のすぐそばで下半身を残骸に挟まれて仰向けになっていた。四番目の女子中学生は、客室乗務員から沢寄り2メートルほどの場所から逆立ちしているような状態で見つかった。 救出された4人とも重傷を負っており、垂直差110メートル、水平差220メートル、平均斜度30度の急坂を、急ごしらえの担架でヘリコプターで引き上げ可能とする尾根の上まで担ぎ上げられた。 11時30分、日本赤十字社の医師、看護師に現場へのヘリ降下が要請され、前橋赤十字病院の医師饗場(あいば)庄一と他医師1名と看護師2人の計4人が降下することとなった。11時45分、医師と看護師は警視庁のヘリに搭乗し、機内でホイスト降下のための指導を受けた。12時00分、離陸。途中ヘリは霧の中に入り激しい雨に見舞われたが、直ぐに晴れた。12時13分、4人は現場に降下した。 饗場らの所見によれば、生存者の脈の状態は、女子小学生は微弱だったが他の3名は比較的良好。非番の客室乗務員は顔面挫創、左上腕前腕骨折、全身打撲。主婦は頭部、顔面挫創、門歯は折れ、肋骨骨折。女子小学生は両下肢骨折、全身打撲顔面挫創。女子中学生は右手首、左下肢挫創、全身打撲だった。 饗場は現地では何もできないのでヘリでの救出を地上の自衛隊に訴えたが、自衛隊ヘリとの連絡がうまく取れず救出が遅れた。13時05分になって初めての女子中学生の収容を開始。自衛隊員が後ろから抱きかかえ太腿で彼女の下肢を挟むようにして、上空でホバリングする自衛隊ヘリへホイストを使って引き上げ収容。続いて女子小学生を収容した。 別のヘリで大人女性二名を収容することになったが、三人目の主婦の収容の際、ヘリからホイストで吊り上げた担架がくるくると回転する場面もあった。四人目の客室乗務員の収容が終わったのは13時28分であった。生存者発見からヘリで全員引き上げるまで2時間43分を要した。 陸上自衛隊のヘリコプターで上野村臨時ヘリポートまで搬送し、4人のうち2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて群馬県藤岡市内の病院に運ばれた。 報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが、生存者の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたという。また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある。
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生存者の救出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 23:59 UTC 版)
「エア・フロリダ90便墜落事故」の記事における「生存者の救出」の解説
事故による機体の損傷があまりにもひどかったため、生存者はいないと思われていたが、割れた氷に6人の生存者がしがみ付いていた。しかし歴史的な寒波に襲われていたワシントンDCでは、連邦政府関係者の多くが早退を命じられていたこともあり、交通渋滞が激化していた。路面の凍結などの状況も加わり、出動した救急車はホワイトハウス前の歩道を走行するなどして渋滞の迂回に努めたが、到着に20分以上要するなど緊急車両の対応が遅れていた。 また、到着したレスキュー隊も凍結した川に対応できる装備を備えていなかったため、満足に救助活動を行える状況ではなかった。 事故現場近くには沿岸警備隊の砕氷能力を備えたタグボートの拠点があったが、事故当時はポトマック川下流の別の救助要請に対応していた。奇しくも墜落の約30分後にワシントンメトロのスミソニアン駅付近で開業以来初めての脱線事故が発生し、緊急機関の対応能力は更に圧迫されていた。 事故から20分後に国立公園管理警察の救助ヘリコプターが駆けつけた。救助ヘリは最初に男性の乗客に命綱を渡したが、彼は残骸に引っかかっていたこともあり、2度にわたって自分の近くにいた女性に譲った。この様子は、救助活動を記録した映像に映り込んでいる。救助ヘリが3度目に戻ってきた時には、彼は既に力尽き、水面下に沈み二度と姿を見せなかった。この男性は後に引き上げられ、本件事故での唯一の水死者(他の犠牲者は衝撃での死亡)となった。彼は46歳の銀行監査官アーランド・ウィリアムズ・ジュニア (Arland D. Williams Jr.) であった。アーランドにはアメリカ政府から救助ヘリの乗員2人とともにゴールド救命メダル (Lifesaving Medal) が授与され、その後、事故現場となった橋“Rochambeau Bridge”(ジャン=バティスト・ド・ロシャンボーに由来)は、アーランドに因んで “Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge”(アーランド・ウィリアムズ・ジュニア祈念橋)と改名された。また、他にもアーランドを祈念して命名された施設がいくつかあり、アーランドの郷里のイリノイ州には2003年に“Arland D. Williams, Jr. Elementary School”(アーランド・ウィリアムズ・ジュニア小学校)が開校された。 また2度目の救助の際、衰弱し力を失った女性が命綱から手を離してしまい、氷の上に取り残されたが、見守っていた群衆の中から2名の男性が飛び込んで支え、無事救助された。後日、このうち1人がアメリカ連邦議会予算委員会職員だったことが判明し、評判となった。
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