渡河作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 20:17 UTC 版)
敵兵が対岸にいる場合、(水陸両用戦車で簡単に制圧した例もあるが、通常は)砲兵や爆撃機の支援の下、煙幕を張り、渡河用ボートを膨らませて歩兵を対岸に送り込み、橋頭堡を確保。架橋戦車では渡れない川幅の場合、ボートや橋脚舟(ポンツーン)に橋げたを設け、上流から流し込み固定して繋げていき橋を作る(ポンツーン橋、浮橋)。
※この「渡河作戦」の解説は、「工兵」の解説の一部です。
「渡河作戦」を含む「工兵」の記事については、「工兵」の概要を参照ください。
渡河作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 15:52 UTC 版)
「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の記事における「渡河作戦」の解説
10月23日、因縁のカポレットの前日にピアーヴェ川の渡河を開始したイタリア陸軍は、まずオーストリア・ハンガリー陸軍の予備戦力を誘き出す為の攻撃を仕掛けた。ボロイェヴィッチ将軍は結束を失い始めていた墺軍を励ましながら防衛線を維持すべく尽力した。川の氾濫などに助けられた事もあって墺軍は初日と翌日の攻撃を耐え抜き、その敢闘にはディアズ将軍も感嘆の念を残している。だが3日目となる10月25日に伊第10軍は渡河の重要拠点であるパパドポリ島を増水する川を乗り越えて奪取し、同地を起点にして攻勢5日目に対岸に上陸地点を確保した。 同じ頃、フランス陸軍イタリア派遣軍団(フランス語版)司令官ジャン・セザール・グラジャーニ(フランス語版)中将率いる伊第12軍(仏陸軍との合同部隊)も別の箇所から渡河に成功し、右側面の伊第8軍が戦線の穴を押し広げた。伊第10軍は伊第12軍及び伊第8軍に援軍を派遣して牽制させつつ、墺第5軍に猛攻を加えて敗走に追い込んだ。10月27日に伊第10軍が防衛線を突破すると徐々に他の墺軍部隊も撃退され、伊第4軍、伊第8軍、伊第12軍も次々と前線を突破していった。ボロイェヴィッチ将軍は全軍に反撃を命じたが、戦意を失ったオーストリア兵は命令を拒否した。10月28日、伊第10軍はピアーヴェ川対岸に確固たる橋頭堡を築き上げた。 ボロイェヴィッチ将軍はピアーヴェ川の防衛が最早不可能であると判断し、タリアメント川に向けて全軍退却を命令した。
※この「渡河作戦」の解説は、「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の解説の一部です。
「渡河作戦」を含む「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の記事については、「ヴィットリオ・ヴェネトの戦い」の概要を参照ください。
- 渡河作戦のページへのリンク