チンドウィン川渡河作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)
「インパール作戦」の記事における「チンドウィン川渡河作戦」の解説
チンドウィン川渡河作戦には「TARZAN」というコードネームが与えられた。スマトラ、アンダマンと同時期に計画されたものであり、北部ビルマでの攻勢を企図したもので、チンドウィン川を渡って概ね南東に進撃し日本軍を駆逐する。中華民国側が関心を示した。しかしカイロ会談にて、マウントバッテンは、 ビルマでの大規模な攻勢作戦を実施すれば中国への空輸には打撃となる。 マンダレーへの進撃は航空機500機の増援を必要とするがその入手には期待できない。 という説明を蔣介石に行っている。 これを受けた蔣介石は選択を迫られ、次のように回答した。 TARZAN作戦の目標についてはインド=カーサ(英語版)の線で妥協する。 ビルマ作戦の成功は、陸上での攻勢と同時に実施する海軍の協力如何で決まる。 これに対し、チャーチルは次のように回答し、蔣介石の上陸作戦実施要求を拒絶した。 海軍作戦は必ずしも陸上作戦とは関連しない。 1944年3月までには適当な艦隊をインド洋に準備するが、上陸作戦の確約はできない。 しかし、蔣介石にはルーズベルトと言う援護者が居た。ルーズベルトは「次の2、3ヶ月以内にベンガル湾を越えて」相当規模の上陸作戦を実施する旨を中国側に約束していた。そのため、翌11月のテヘラン会談の際、英国側は追い詰められた。結局、12月5日の連合幕僚長会議による協同覚書では 英側提案:BUCCANEER作戦延期 米側提案:TARZANおよび連接する上陸作戦は政治的にも軍事的にも必要性大 とそれまでの要求が併記されるに至った。ルーズベルトはBUCCANEERを断念することで対立状況が打開できると決心し、「欧州における作戦のために、ベンガル湾において大作戦を行う余裕がない」ことを名目とした書簡を送り、自身が蔣介石に行った約束を破棄した。マーシャル、キングはBUCCANEER実施を前提に議論を展開してルーズベルトを補佐してきたため、新見政一はルーズベルトの専断的な決定例と説明している。 1944年(昭和19年)1月に米国幕僚長会議はTARZAN作戦自体も渋々取り下げるに至ったが、その頃にはスティルウェルは自身の成功により、米国内での声望を高め、英国側は不利な立場になった。
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